【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック(1)】 新型コロナウイルスの影響で世界が停滞する今、改めて思うのはスポーツの力の偉大さだろう。アスリートたちはいつの時代も多くの人間に活力を与えてきた。本紙も1日に創刊60周年を迎えた中で印象的な試合、出来事を振り返る新企画「フラッシュバック」がスタート。第1回はサッカー女子日本代表が「なでしこジャパン」と呼ばれる前、難敵・北朝鮮を撃破してアテネ五輪出場権を獲得した伝説の一戦をフォーカスする。日本女子サッカー界のターニングポイントとなった激闘の裏であのレジェンドは何を思っていたのか――。

 日本女子サッカーの運命を懸けた大一番、大黒柱の澤穂希はさまざまな感情を抱えながらピッチに立っていた。日本中が熱狂した一戦の舞台裏は「快挙」の2文字だけでは収まらないほど、複雑なものが入り組んでいた。

 最終予選1次リーグで日本はベトナムに7―0、タイに6―0で大勝して準決勝に進出。待ち受けていたのは、過去7戦全敗の北朝鮮だった。アジアの五輪出場枠は2。難敵を倒さない限りは出場権は手に入らない。そんな中、チームは大ピンチに陥っていた。

 大会前の練習中、澤は右ヒザを負傷。その情報は大会中に表に出ることはなかったが、ベトナム戦、タイ戦ともに本来の出来ではないように映った。自分がやりたいプレーができないもどかしさがあったのだろう。北朝鮮戦の前夜、一度は欠場を決意した。だが、チームメートは引き留めた。

「あなたがピッチに立ってくれるだけでいい。それで私たちは力を得られる」

 当時、弱冠20歳で代表メンバー入りしていたFW大野忍は「北朝鮮戦の前は本当に雰囲気が悪かった。たたでさえ北朝鮮には勝ったことがないのに、頼みの澤さんの状態が良くない。それでも大丈夫、という強い思いで試合に臨んだけど、やっぱりみんなの心のどこかには不安があった」と振り返る。

 しかし、その不安はすぐに消えた。会場の国立競技場のスタンドを見渡した選手たちは、3万1324人の大観衆に身震いした。「私たちの応援のために、こんなに集まってくれている」。誰かが漏らした言葉に、イレブンの思いは「勝てるかもしれない」という予感に変わった。

 そしてキックオフ。右ヒザにぐるぐる巻きのサポーターを施し、FWとしてプレーした澤が、自身最初のプレーで相手選手をショルダーチャージで吹っ飛ばし、ボールを奪取。フィジカルで北朝鮮に勝てるチームはない、というのが当時のアジア女子サッカーの見立てだっただけに、このプレーを見たGK山郷のぞみは「今日の試合、勝てる」。予感は確信に変わった。

 試合は前半11分にFW荒川恵理子のゴールで日本が先制した。同アディショナルタイムに相手のオウンゴールで加点し、後半19分にFW大谷未央がダメ押しゴールを奪って3―0で激勝。過去13年勝てていなかった強敵を破り、大観衆の前で澤も泣いた。

 前回、2000年シドニー五輪は出場権を取れず、日本女子サッカーは暗黒時代に突入。スポンサーが離れ、存続できないクラブも出た。「ここでアテネに行けなかったら、日本の女子サッカーは本当に終わってしまう」。澤はそんなプレッシャーとも戦いながらピッチを走り回っていた。

 ハッピーエンドとなった大会だが、実はこの期間中、澤が激怒していた事件はあまり知られていない。そのきっかけとなったのは、一部で出た結婚報道だ。

 後に澤はテレビ番組などで、米国でプレーしていた時に交際していた恋人の存在と破局に至るまでの経緯を明かしているが、当時はまだ公にしていなかった。にもかかわらず、予選の真っただ中で「結婚」と書かれた。ただ、澤が事態を重く見たのはこれが誤報ということではない。大事な決戦を前に自身のプライベートに注目され「チームに申し訳ない気持ちがあったので、少しカーッとなってしまった」と語っていた。

 世界の頂点にまで上り詰めたなでしこジャパンのレジェンド。その原動力は周囲への感謝と、チームを思う献身性にあった。   

 北朝鮮撃破の立役者はもちろん選手たちだが、この快挙の“もう一人の功労者”が当時の日本協会会長・川淵三郎氏であることに異論を挟む者はいないだろう。

 当時の女子代表戦では異例となる3万超の観衆を集め、テレビ朝日系列でゴールデンタイムの生中継。国内女子リーグや大学、高校に動員を促したのは川淵会長の大号令があったからだ。会場には日本体育大に入学したばかりの川澄奈穂美、宮城・常盤木学園高に在籍していた鮫島彩ら、その後の日本女子サッカーを支える選手たちもスタンドで声をからしていた。

 川淵会長の“女子サッカー推し”は北朝鮮戦の前年、2003年7月の女子W杯大陸間プレーオフからだった。メキシコとの第1戦はメキシコ市のアステカスタジアムでの完全アウェーながら、2―2の引き分け。下痢など体調不良者を多数出す中で価値ある2つのアウェーゴールを持ち帰ったひたむきな姿に、川淵会長は心を打たれた。

 運命の第2戦を迎えるにあたり、協会は決戦地として国立競技場を用意。幅広い告知を行い、1万2743人の観衆を集めた。サポーターの後押しもあり、試合は2―0の完勝。川淵会長は同年9~10月のW杯米国大会も視察し、訪れた選手宿舎では当時男子にしかなかった日当を女子にも出すことを即決するなど、女子サッカーの待遇改善を図った。こうした配慮を意気に感じた選手たちは発奮し、北朝鮮戦の勝利につながった。

 女子サッカー人気を確実なものにしたい川淵会長は、大会後にチームの愛称を公募。アテネ五輪直前に「なでしこジャパン」と命名した。その後、11年ドイツ女子W杯での初優勝を皮切りに世界のトップに君臨。この活躍を一番喜んでいたのは川淵氏だった。

 ☆さわ・ほまれ 1978年9月6日生まれ。東京都出身。15歳だった93年に日本代表に初招集され、デビュー戦で4得点の大活躍。2004年アテネ五輪、08年北京五輪に出場。11年ドイツ女子W杯では得点王、MVPに輝き日本の初優勝の原動力となった。同年にはFIFA年間女子最優秀選手賞も受賞。12年ロンドン五輪で銀メダル。男女通じて世界初のW杯6大会出場となった15年カナダ大会でも準優勝を飾った。15年夏に結婚し、同年12月に現役引退。日本代表通算205試合出場、83得点。