【霜田前技術委員長が振り返る日本代表激動の7年(最終回)】 日本サッカー協会の前技術委員長でナショナルチームダイレクターを務めた霜田正浩氏(49)が百戦錬磨の海外クラブやエージェントとの交渉など、厳しい“闘い”の日々を振り返った。

 ――海外クラブとの交渉も担当してきた

 霜田氏 一番苦戦したのは(ドイツ1部)シャルケ時代の(フェリックス)マガトさん(63)かな。内田篤人(28)を代表に呼びたいのに「譲れない(出せない)」と言って…。5分くらい沈黙が続くこともあった。“鬼軍曹“という異名のイメージ通りの指導者で「アツトを代表に連れて行くのなら代わりの選手を獲るぞ」とか。詳細は言えないけど、いろいろな駆け引きはあった。

 ――香川が在籍したマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)はうるさそうだ

 霜田 特に問題はなかった。ルールに基づいてやってくれた。ただ欧州クラブとの様々な交渉は一筋縄ではいかない。「選手にサラリーを払っているのはクラブだぞ」と言われるし、外部にはとても出せないようなことも言われた。(五輪など)ルールにない代表招集の実現には、クラブと直接コミュニケーションをとるのが大事でしょう。

 ――ところで代表監督の売り込みは

 霜田 いろいろなところからある。報道で出たような名将からもあったし、あるときは5人のエージェントから同じ監督の売り込みがあった。「知り合いだ」とか「オレはコンタクトできる」と。W杯本大会の前後とか欧州選手権の前後など、監督が代わるタイミングでたくさん来る。アジアではW杯にいける可能性のある国だし、日本代表は人気でしょう。

 ――具体的には

 霜田 ロシア代表を率いていた(ファビオ)カペッロさん(70)の売り込みがあった。サラリーを聞いたらとんでもない額。ロシアは年俸10億円? そのくらいな感じだったかな。でも最近(のビッグネーム)は日本よりお金のある中東とか中国じゃないかな。日本はやりがいを持ってくれるかを見るし、お金ではなく人間的なアプローチをしていた。

 ――退任したが、最後にやり残したことは

 霜田 昨年はU―16、U―19が世界大会に進み、U―23代表は五輪に出た。A代表もロシアW杯アジア最終予選の半分終わったところで2位以内に入っているのが、目標だった。やり残したことはない。もちろん困難もあったし、バッシングも受けた。だけどW杯予選は監督を支えてやってこれた。(辞める)タイミングとしてはここだったのかな。(終わり)

 しもだ・まさひろ 1967年2月10日生まれ。東京・豊島区出身。高校を卒業後、ブラジルにサッカー留学し88年にフジタ工業(現J2湘南)入り。93年に引退し、数々のクラブで指導者や強化担当を歴任した。2009年に日本サッカー協会入りし、14年9月に技術委員長に就任した。16年3月に組織再編でナショナルチームダイレクターを務めるも同年末で退任。170センチ、63キロ。