【霜田前技術委員長が振り返る日本代表激動の7年(2)】日本サッカー協会の前技術委員長でナショナルチームダイレクターを務めた霜田正浩氏(49)の足跡を振り返る短期連載第2回は、2014年ブラジルW杯を指揮したイタリア人指導者、アルベルト・ザッケローニ監督(63)について。欧州の名将の招聘はなぜ実現したのか。交渉の過程に加えて、就任後の意外な舞台裏を明かした。

 ――日本代表のサポートを本格的に始めたのはザックジャパンだった

 霜田:当時は原(博実=58、Jリーグ副理事長)さんが技術委員長で僕は補佐する立場だった。南アフリカW杯後、次の代表監督をどうするのか。まずはガイドラインをつくった。代表歴や指導実績など「こういう指導者が望ましい」というもので、その中にアルベルトの名前が出てきた。本人も日本に興味を持ってくれたのでイタリアに行って交渉を担当した。

 ――ザッケローニさんは欧州でも有名な指導者だった

 霜田:世界トップ50に入る指導者を日本代表監督に招聘しようとしても、協会のバジェット(予算)では難しいものがある。欧州ビッグクラブなら監督に年俸3、4億円が当たり前になっている中で、日本に…というのは世界情勢的にも厳しかった。アルベルトは、そのトップ50に入っていた監督だったし、イタリアのビッグ3(インテル、ACミラン、ユベントス)で監督を務めた実績があった。条件面も含めタイミングがよかった。

 ――欧州クラブの引き抜きを懸念していた

 霜田:それはアルベルトだけではなく(ハビエル)アギーレさん(58)も(バヒド)ハリルホジッチさん(64)も。世界トップ50に入る指導者だから。彼らは金銭面だけではなく、日本での指導に、やりがいを感じてくれていたし、途中で投げ出すことはないと思っていた。だけど、いつロシアのお金持ちクラブが大金積んで引き抜きにくるのかわからなかった。いつでも対応できるように準備は進めていたけど、実際には何もなかった。

 ――人柄は

 霜田:本当に紳士だった。手はかからなかったし過大な要求もない。何事もキチンと説明すればわかってくれた。僕らはプライベートもケアしていたし、仕事する環境もサポートできていたのでストレスはなかったのでは。一番の思い出は試合前に選手がウオーミングアップしている最中、ロッカーで2人になり、その日の選手の動きとか試合の展望をアルベルトが語りながら確認する。それを僕が聞くというのがルーティンだったこと。

 ――当時の代表は欧州組ばかりで国内軽視の偏重主義と言われた

 霜田:そこはちょっと違うかな。ちょうど欧州でプレーする日本人選手が増えてきた時期。アルベルトは言葉も環境も違う厳しい場所でやっている選手のことをリスペクトしていたし、欧州のレベルを肌感覚でわかっていた。日本と欧州のレベルの違いを知っていた。Jリーグの選手だから選ばれないのではなくて、過酷なイタリアやドイツでやっている選手を選んだということ。そういう時代背景だった。

 ☆しもだ・まさひろ 1967年2月10日生まれ。東京・豊島区出身。都立高島高を卒業後、ブラジルにサッカー留学し88年にフジタ工業(現J2湘南)入り。引退した93年に大塚製薬(現J2徳島)でコーチに就任。数々のクラブで指導者や強化担当を歴任。2009年に日本サッカー協会入りし、10年から技術委員。14年9月に技術委員長に就任した。16年3月に組織再編でナショナルチームダイレクター。長年日本代表をサポートしてきたが、同年末で退任した。170センチ、63キロ。