【ハリルジャパン誕生の真相(前編)】サッカー・ロシアW杯に向け、バヒド・ハリルホジッチ新監督(62)が就任した日本代表は、先月末の国際親善試合を連勝して好スタートを切った。前任のハビエル・アギーレ氏(56)が八百長疑惑で解任されてから新監督決定まで、世界を巻き込む騒動になったが、舞台裏では何があったのか。交渉を担当した日本サッカー協会の霜田正浩技術委員長(48)が、本紙インタビューに応じて激白。前後編の2回にわたって、ハリルジャパン誕生の“真相”をお届けする――。

 ――アギーレ氏の解任が決まり、新監督の選考について、どんな考えだったのか

 霜田委員長:いい監督を連れてこないといけないプレッシャーがある中で、最初にガイドラインを作った。Jクラブの監督を引き抜かないとかね。僕はジェフ(千葉)にいて(イビチャ)オシムさんを(日本代表監督に)引き抜かれたクラブのダメージも分かっていたので「代表だけが良くなればいい」という発想はなかった。

 ――他の決め事は

 霜田:(2007年に脳梗塞で退任した)オシムさんの件があったので、健康な人というのがあった。アジアを戦う中で長距離移動は大変だから。上限は60歳? 年齢制限はなかった。(ファビオ)カペッロ(ロシア代表監督=68)のように70歳近くでバリバリな人もいる。監督は62歳だけど元気だからね。

 ――調査のため2月8日にパリ入りした

 霜田:10日間で8人とコンタクトした。名前は言わない。本人と会ったり、電話だけのケースもあった。そこでは契約現状やサッカーの考え方などの確認をしただけ。誰にも正式なオファーを出していない。ハリルホジッチ監督にも、このタイミングで会った。

 ――オシム氏には、いつ会ったのか

 霜田:欧州に入り、一番最初に行った。会えなかったけど(報道で)言われているような、誰かを紹介してもらうために行ったわけではない。そういうことを一切しない方なので。日本サッカーを知り尽くし、海外から冷静に見ているオシムさんが、日本代表の強化をどう捉えているのかを聞こうと思った。

 ――メディアでさまざまな名前が飛び交った

 霜田:ありもしない名前が出ていたし「3人に断られた」と出たけど、事実ではない。その時点では誰にもオファーしてない。「騒がないで」とは言わないが、交渉事なので、報道で名前が出ると(本命との交渉が)ボツになる可能性も考えないといけない。だからメディアにも隠すことが目的ではなく、何も話せなかった。

 ――ミカエル・ラウドルップ氏(50)で決定との報道もあった

 霜田:候補には挙がったが、報道は過剰だった。メディアの意向は理解するけど…。それに代理人や本人が(売名で)勝手に言っているケースもあった。(チェザーレ)プランデッリ氏(前イタリア代表監督=57)? リストアップもしていない。(調査は)隠れてコソコソってほどでもないが、そういう感じだった。(コンタクトした8人が)誰だったのかは墓場まで持っていく。

 ――ハリルホジッチ氏の第一印象は

 霜田:初日からランチを挟んで6時間も話したからね。ちなみに食べたのはタイ料理。とにかくサッカーに熱い人だなって思った。僕のほうから日本のプログラムとかを説明し、彼は指導経験などを、あの調子でバーッと話してきた。日本のプロジェクトや代表に必要なものは何かと聞くと、ブラジルW杯の日本の試合を分析してくれていて、マシンガンのように答えてくれた。それは僕の考えと似通っていた。

 ――決め手になったのは

 霜田:日本サッカーがやってきたこと、ザッケローニさんやアギーレさんがやってきた過去を否定せずに、ダメなところを言ってくれた。しかもこうすれば改善ができるという話もしてくれた。単にダメ出しして、あの選手はダメだというのではなく、具体的な例で次のプランを出してくれた。すべてではないけど、その話を聞いて第一候補にしようと考えたかな。

 ――そもそもなぜ、ハリルホジッチ氏に

 霜田:ブラジルW杯でもリアルタイムで(ハリルホジッチ監督が指揮した)アルジェリア代表を見ていたし、いいサッカーしているのは分かっていた。経歴はネットで分かるけど、人柄は会ってみないと分からない。熱い人でいいなと思った。

 ――その後、帰国して本格交渉に入った

 霜田:技術委員会で報告し、誰が日本代表にふさわしいのか。僕の中ではハリルホジッチ監督がいいかなとは思っていた。メンバーで協議し(候補者リストの)一番上になったハリルホジッチ監督にオファーし、交渉した。他の誰にもオファーしていないし、2番手の候補と交渉することもなかった。

(続く)

☆しもだ・まさひろ=1967年2月10日生まれ、東京都出身。都立高島高校を卒業後、ブラジルにサッカー留学。サントス時代にFW三浦知良と交流を深める。88年に帰国し、フジタ工業(現J1湘南)入り。93年に現役を引退し、指導者に転身。京都やFC東京、千葉で強化担当やコーチを歴任し、2004年に公認S級ライセンスを取得。09年に日本サッカー協会入り。10年から技術委員。14年9月、技術委員長に就任した。