【現場ノート 小嶺忠敏さん悼む】稀代の名将が天国へ旅立った。肝不全のため、76歳で亡くなった高校サッカー界の功労者・小嶺忠敏さん(長崎総合科学大付監督)の葬儀と告別式が9日、長崎県南島原市内でしめやかに営まれた。

 これまで数多くの選手を指導、育成しプロの世界へ送り出した功績は、日本のサッカー史上において永遠に語り継がれることだろう。ただ、どうしても、いまだに亡くなられた事実を受け入れられない自分がいる。近年は体調を崩されながらも、サッカー指導者として心血を注がれていたことは人を通じて聞いていた。それでも、あの豪快かつ温厚篤実(おんこうとくじつ)な「小嶺先生」ならば病魔に打ち勝ち、ずっといつまでもお元気な姿でいていただけるのではないだろうかと勝手に思い込んでいた。

 かつて私が「九州スポーツ」の記者としてサッカー担当を務めていた20年以上前、確か1998年2月だったと記憶している。S級ライセンスを取得するため、沖縄市で行われていたJリーグ・アビスパ福岡の春季キャンプに帯同していた小嶺先生とご一緒する機会に恵まれた。当時、名門の国見高を率いて「常勝軍団」を築き上げていた小嶺先生は、多忙なスケジュールの間隙を縫ってはサウナに行くことが大好きで、沖縄滞在期間中は私も連日のようによく誘われた。

「三島さん、サウナへ行こうか」 

 携帯電話が鳴ってから、そうやって決まり文句のお呼びがかかると近くのサウナ施設へ2人で直行。「最低8分間は入らなければダメだ」と〝謎の言葉〟を投げかけられながら苦悶の表情を浮かべ、水風呂入浴と交互に何度も繰り返し、お互いに汗を流し合った。その後は決まって近場の沖縄居酒屋へ行き、恥ずかしながらベロベロに酔いつぶれた私を「三島、気合だ~っ」とアニマル浜口氏ばりの〝猛ゲキ〟とともに介抱してもらったこともあった。

 1990年代後半の毎年12月は全国高校サッカー選手権・長崎県代表の座をつかんだチームの大会前取材のため、国見高へ通い続けた。その時も小嶺先生は「せっかく来たんだから」と酒席に誘ってくださり、99年12月の取材では深酒し過ぎた私を心配し、選手寮の宿直室に布団を敷いて「ここに泊まっていきなさい。ただ、朝6時ごろになったら部員たちが起き始めてうるさくなるよ。ガハハハ」と豪快な笑顔を向けてもらったことを思い出す。

 お酒が強い人で、いつもペースについていけなかった。それでも酒席でサッカー論だけでなく、人間形成や教育論に至るまで数多くの金言を耳にする時間は私にとって本当に貴重だった。

 小嶺先生、たくさんのことを教えていただき、有り難うございました。どうかゆっくりとお休みください。合掌――。(1996年~2000年、サッカー担当・三島俊夫)