【千田善氏インタビュー後編】初陣で2連勝と好スタートを切ったバヒド・ハリルホジッチ新監督(62)に日本サッカーへの適性はあるのか。同じ旧ユーゴスラビア出身の元日本代表監督イビチャ・オシム氏(73)の下で、通訳を務めた国際政治学者の千田善氏(56=立教大講師)が徹底分析。後編では「奇術師」と呼ばれた新指揮官の実情と今後へのわずかな不安に迫る。

 ――旧ユーゴ出身の指導者が世界で活躍中だ

 千田氏:サッカー界だけではなく、世界的に成功している人は多い。これには歴史的な背景もあるのではないか。ユーゴ圏の人たちは移民文化なので世界中のどこに行っても適応力があり、裸一貫で成し遂げようとするバイタリティーがある。母国を飛び出して成功する。それが民族的にも当たり前になっている。

 ――オシム氏の自宅はオーストリアでハリル氏もフランスに居住する

 千田:現地の習慣になじもうとする対応力がある。論理的で分析熱心なので、どんな場所でも、その土壌を受け入れる。サッカー界で「ユーゴスクール」という言葉がある。特徴は(指導を受けると)どんな場面でも柔軟に対応できるもので、広く知られている。だからワヒドさん(バヒドの現地語読み)も日本への適性はあるでしょう。

 ――オシムジャパンで活動した実績から、どんな点が気になるか

 千田:日本選手は規律やルールを守るのが長所で、ワヒドさんも就任会見で言っていた。だけどオシムさんは日本人が忠実に指示を守るばかりなところは納得していなかった。当時チーム内で言っていたジョークが「シュートを打つ前にベンチを見るなよ」だった。その辺はワヒドさんも頭を抱えるかもしれない。

 ――ところでハリル氏は苦難の人生だ

 千田:報道で多く出ているので、大ざっぱに言うと、戦争でひどい目に遭った。自宅とお店(カフェ)は焼かれて全財産を失った。それでフランスに移住し、指導者資格も取り直して現在の地位を築いた。日本では銃撃戦を止めようと飛び出して下腹部を負傷したと伝えられているが、実は撃たれたわけではない。

 ――どういうことか

 千田:当時、最初に独立したスロベニアを中心に取材をしていたが、彼は飛び出す際、腰の辺りに忍ばせていたピストルを取り出そうとした時に暴発して…。だから負傷したのはでん部。これは本人のコメントを聞いたもの。ちなみに取材で得たテープを日本に持ち帰り、初テレビ出演したのが、久米(宏)さんの「ニュースステーション」だった。

 ――戦場ジャーナリストだった

 千田:ベレー帽はかぶっていないが(笑)。ワヒドさんは紛争の影響もあり、母国では監督をやらなかった。フランス時代に取材で、そのことを聞かれて号泣したそうだ。まだいろいろな思いを引きずっているのでしょう。ブラジルW杯後はボスニア・ヘルツェゴビナ代表監督も断った。(1992年に)ベレジュで監督をしたといわれるが、実際はスポーツディレクターだった。

 ――でもディナモ・ザグレブは指揮した

 千田 そこは例外。恐らく憧れのチームでワヒドさんが徴兵された時の駐屯地がザグレブだった。そこでディナモの練習に参加していた。こうした背景があって引き受けたのかも。旧ユーゴでは18~27歳の間に15か月の徴兵が義務だった。(現在は6か月に短縮)。ピクシー(ストイコビッチ氏)も徴兵でコソボに行っている。

 ――そうでしたか

 千田:ワヒドさんもオシムさんも研究や分析に熱心だし、発言にも慎重な人が多いのも戦争の影響かもしれない。ワヒドさんは一番いい時期のフランスサッカーにも関わっているし、義理人情に厚い監督なので先々が楽しみだ。(終わり)

☆ちだ・ぜん=1958年10月10日生まれ。岩手県出身。東京大学を経てベオグラード大学政治学部大学院修士課程国際政治専攻中退。国際政治学者でジャーナリストとしても活動する。2006年からサッカー日本代表監督イビチャ・オシム氏の通訳を務める。現在は立教大学講師。漫画家の吉田戦車はいとこ。