【The インタビュー~本音を激白~(11)】日本代表はスペイン1部ヘタフェのMF久保建英(19)を中心としたチームづくりを――。かつてスペインでプレーした元Jリーガーの安永聡太郎氏(44)が久保をアルゼンチンの“英雄”ディエゴ・マラドーナ氏(享年60)に例えて日本の新エースに指名した。連載「The インタビュー」第11回で、同1部ビリャレアルからヘタフェに移籍した“至宝”の現状を徹底分析しつつ、スペインでの今後を独自の切り口で展望した。

 安永氏はJ1横浜Mや清水などで活躍した一方、スペイン2部のリェイダ、ラシン・デ・フェロールでプレーした。リェイダ時代には34試合出場4得点と、日本選手によるスペインのプロリーグ出場、得点はともに初となる快挙だった。“開拓者”はスペインサッカーの現状をどう見ているのか。

 安永氏(以下安永)スペインでは2016年から放映権料の分配方式が変わって中位や下位のチームにも資金が回るようになった。そこで補強ができるようになり、だいぶ実力が拮抗してきている。スポンサーを得るために日本人選手、最近は中国人選手のMFウー・レイ(29)をエスパニョールが入れたりしているが、昔と違って、お金のためだけでフロント主導の選手を獲ることは今はあまりなく、実力も伴っている。良い意味でグローバル化されたと思う。

 そうした中で、今季の久保は強豪ビリャレアルで十分な出場機会を得られず再レンタル移籍を決断。下位のヘタフェで出直すことになった。

 安永 もともと(ホセ)ボルダラス監督(56)は守備的にブロックをつくって荒々しいスタイルだったが、あのサッカーは疲弊する。選手も引き抜かれる中、同じファイトスタイルを続けたが、結果がついてこなくなる。そこで(MFカルレス)アレニャ(23)と久保を入れた。ビリャレアルでは苦しい思いをしたが長い目で見ればプラスだろうと思う。能力が劣っていたとは思わない。スペインを代表する選手たちとレギュラー争いにいって敗れたが、日本人で彼らに挑みにいける選手なんて他にいない。

 強豪で激しいポジション争いを繰り広げたことで成長し、出番は増えなかったが、19歳にして貴重な経験を積んだ。

 安永 そこで得たものをボルダラス監督のもとで出していけばいい。ヘタフェでは間違いなく最初は化学反応が起きる。まずはポジティブなスタートを切れた印象だけど、今後上位クラブと対戦した時に何を見せられるかだ。今求められているのはゴール、アシストという結果だね。半年でマジョルカの時と同等(4ゴール4アシスト)くらいのものを出せれば来季の視野も広がる。

 久保は22年カタールW杯を目指す森保ジャパンでも着実に出場機会を増やし、飛躍的に成長する可能性もある。

 安永 アルゼンチンは82年(スペイン)W杯で21歳のマラドーナに10番を背負わせた。当時は他にも組み合わせが考えられたが、マラドーナ中心のチームをつくって2次リーグで負けている。でも4年後の86年(メキシコ大会)に優勝している。それくらいの選手が出てきたと思う。アルゼンチンでさえ“犠牲”になった人はいる。巡り合わせの中で監督は選択しないといけない。うまい選手を11人集めてみんなが主役になったらうまくいかない。それを森保監督が忖度せず、冷酷にできるかだと思う。

 W杯8強を狙う日本代表は攻撃的MFが人材豊富だが、将来を見据えて久保の能力を最大限に生かすチーム編成が不可欠になるとみている。

 安永 久保を中心にすれば、MF堂安律(22=ビーレフェルト)やMF三好康児(23=アントワープ)を切らなきゃいけないかもしれない。でも、久保を気持ちよくプレーさせるためには誰がいいのかという編成をしないと。本気でW杯8強、4強を目指すならこういう逸材が出てきた時になんとか生かさないといけない。ブラジルだって黄金のカルテットでW杯を取れていない。だからこそ森保さんはつらい決断も多くなると思うが覚悟を持って嫌われ役にならないといけない。

 今後はRマドリードへの復帰を目指すが競争は激烈だ。久保が活躍できる可能性はあるのか。

 安永 期待値としては高いが「できます」というのはあまりにも安易。ここ十数年の間に選手を獲得してレンタルに出し、戻して試合にしっかり出ているのは3、4人だけ。ただ、そこに入る可能性はある。テレビ番組で例えると、MC(司会者)がいて、メインの出演者がいてガヤ(脇役)がいる。ガヤの中ですら誰がツッコむとかあって、自分の能力を発揮できずに次回呼ばれない芸人もいる。それを世界規模で争うわけだからね。外国人枠もあり世界各国のスターと3枠を争う。心から応援しているが、需要と供給のタイミングが合うか運の問題もあるので、チャンスを逃さないために結果を出し続けていかないといけない。

 ☆やすなが・そうたろう 1976年4月20日生まれ。山口県出身。静岡・清水商高で6度の日本一に輝いた。卒業後に横浜M入り。1年目から主力として活躍し、Jリーグ優勝に貢献。清水、柏に所属したほか、スペインでもプレーした。95年の世界ユース選手権(現U―20W杯)に出場。97年にスペイン2部リェイダに移籍して34試合出場4得点をマークし、2002年には同ラシン・デ・フェロールでプレーした。引退後は脳性麻痺7人制サッカー日本代表監督、J3相模原監督などを歴任し、解説者などで活動中。178センチ、75キロ。