2005年世界ユース選手権で日の丸を背負った本田圭佑(現ACミラン)は、北京五輪アジア予選を戦う代表にも選出された。だが、当時の反町康治監督(50=現J2松本監督)の下では不動のレギュラーというわけではなく、MF柏木陽介(現浦和)のサブという扱いで、メンバーから外れることも珍しくなかった。

 大きな転機となったのは08年、オランダのVVVへの移籍。当時本田は「海外では結果でしか判断されない」とゴールへの意識を高めた。すると評価も急上昇し、08年の北京五輪に臨む日本代表の中心選手としてチームをけん引。それでも1次リーグ3戦全敗と結果を残せなかった。

 待望のA代表入りは岡田武史監督時代の08年。オランダでの実績が認められた。当時の代表は攻撃陣の層が厚く、出場機会に恵まれなかったが、10年1月にロシアのCSKAモスクワに移籍すると、指揮官の評価が急変した。

 当時、岡田監督は「オランダ時代は守備もしないダメな選手だったけど、守備もするようになった。まったくイメージが変わった」と明かし、南アフリカW杯直前に1トップでの起用を決断。前線からの守備も効いて、決勝トーナメント進出の立役者となった。