【東スポ60周年記念企画 フラッシュバック追悼特別編】2020年11月25日、元アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナ氏が60歳で急死した。優勝した1986年メキシコW杯で見せた「神の手」や「5人抜き」など伝説となったプレーをはじめピッチ内外で様々なトラブルを巻き起こし、世界を驚かせてきたスーパースターは、02年W杯招致レースに取り組んでいた日本に大きな影響を与えていた――。本紙連載「フラッシュバック」特別編では日本サッカー界を揺るがした“マラドーナ狂騒曲”を振り返る。

 1994年米国W杯南米予選で大苦戦していたアルゼンチン代表にマラドーナが電撃復帰。オーストラリアとの大陸間プレーオフを制し、ギリギリのところで出場権の獲得に成功した。そして、94年夏の本番に向けて同5月26日に日本代表と国際親善大会キリンカップ(日本)で戦うことが決まっていた。

 日本サッカー協会では「マラドーナがメンバーに入ってワガママを言われたら困る。来日しても“試合に出たくない”と言いだしたらファンが怒るかもしれないし…」という心配をしていたが、5月に入って同国メンバーのビザ申請が開始されると、日本の法務省はコカインの使用歴があるマラドーナに対して入国拒否を突き付けたのだ。

 実は、日本協会は麻薬使用歴のあるポール・マッカートニーら大物ミュージシャンが来日していることから、処分を終えたマラドーナも入国が可能とみていた。当時マラドーナの日本マネジメントを担当していた青山エンタープライズ社では「本人から日本へ行くと連絡があった」とした上で「日本サッカー協会のやり方が正攻法過ぎたのでは。見通しが甘かったのではないか。法務省にしっかりと事情を説明していれば…」と、協会の対応を疑問視した。

 まさかの事態に大騒ぎとなる中、エースの入国拒否にアルゼンチン協会は態度を硬化。これまで南米各国はもちろん、プレーオフを戦ったオーストラリア、さらにW杯を開催する米国でも入国が認められていたこともあり、チームの日本行きをキャンセルした。この一件に在アルゼンチン日本大使館には抗議が殺到。さらに大使館が入るビルに催涙ガス弾が仕掛けられて炸裂した。大使館員にけがはなかったが、ビル従業員2人が被害を受ける惨事に発展した。

 まさに国際問題に発展してしまったわけだが、日本協会が真っ先に不安視したのは終盤戦を迎えていた2002年W杯招致だ。世界的なスター選手の入国拒否で「日本開催に疑問を持たれるのでは」というもの。協会の小倉純二専務理事(当時)も「世界の流れに逆行していると、アンチ日本派の攻撃材料に利用される恐れがある」とし、豊島吉博事務局長(当時)も「日本はサッカーに対して理解がないとFIFA(国際サッカー連盟)に思われてしまった」と先行きを懸念した。

 しかもアルゼンチン協会のフリオ・グロンドーナ会長(当時)はFIFAの副会長を務めるなど、W杯招致に大きな影響力を持つサッカー界の重鎮。世界屈指の強豪国があえて日本での対戦を承諾したにもかかわらず、まさかの“仕打ち”に報復も心配された。そんな中で「誰かが辞めないといけない」と、協会幹部の辞任を求める声も。「当然でしょ。みんなからお金(開催候補の自治体から2億5000万円の協賛金)を集めて招致活動をしているのに…」とJリーグ関係者が話していたように、協会は窮地に追い込まれた。

 マラドーナの大きな影響力を見せつけられた日本協会は急きょ小倉専務理事をアルゼンチンに派遣させることを決め、事態収拾に動いた。協会幹部が地球の裏側に駆けつけたことにアルゼンチン側も態度を軟化。日本の対応に理解を示し、グロンドーナ会長と何とか和解したものの、あわやW杯招致レースで脱落となりかねない危機だった。

 その後、マラドーナは日本が招致に成功した02年W杯で来日。「政府高官特使」という肩書で例外的に入国が認められたが、アルゼンチン代表監督時代に浮上していた日本代表との試合は実現しなかった。

 ☆ディエゴ・マラドーナ 1960年10月30日生まれ。アルゼンチン出身。15歳だった76年に母国アルヘンティノス・ジュニアーズでプロデビュー。82年にスペイン1部バルセロナに移籍し、華麗なテクニックとドリブルで世界を魅了した。16歳で代表入りし、82年スペインW杯から4大会連続出場。86年メキシコ大会では5ゴール5アシストで母国の優勝に貢献した。97年に引退し、2008年に母国代表監督に就任。10年南アフリカW杯で8強入りした。11月25日に心臓発作のため死去。165センチ。