サッカー界のスーパースターで元アルゼンチン代表FWディエゴ・マラドーナ氏が25日、ブエノスアイレス近郊の自宅で死去した。10月30日に60歳になったばかりだった。同国メディアによると死因は心不全だったという。数々の輝かしいキャリアを誇りながら、薬物依存などピッチ外でも常に世間を騒がせてきたカリスマ。本紙紙面も派手ににぎわせてくれたが、1994年W杯米国大会を取材したサッカー担当記者は「神の子」の衝撃エピソードを披露した。

 マラドーナといえば、思い出されるのは1994年のW杯米国大会でのことだ。

 アルゼンチン代表のキャプテンとして、自身2度目のW杯優勝を目指していた。本紙は大会開幕前の5月末、彼らがトレーニングをしているボストンを訪れた。といっても、どこのホテルに宿泊しているのか把握しておらず、つたない英語で聞いて回り、何とかホテルを突き止めた。

「やれやれ」とホテルのレストランに入り、カメラマンと一緒にコーヒーを飲んでいると、驚いたことに少し離れた席にマラドーナと、家族の姿が…。

 そこで本紙カメラマンがカメラをテーブルに置き、彼らの席に向かって2度、3度とシャッターを切った。しかし、これに気づいたマラドーナが何かわめき散らしながら、ものすごい形相でわれわれの席に近づいてきた。

 その勢いに平身低頭、謝るしかなかった。その上でカメラマンはおわびとして、出発時に日本の空港で購入した日本人形がついたボールペンを渡した。確か400~500円程度のものである。しかし、マラドーナは予想外に喜んだ。どうやらポイントとなった日本人形が気に入ったようで、飛び切りの笑顔を見せ「OK、OK」といって撮影を許可してくれた。それも妻と子供が一緒という貴重なショットで、本紙の1面を飾った。

 大会に入るとマラドーナは期待にたがわぬ活躍を見せた。彼の活躍で1次リーグのギリシャ戦、ナイジェリア戦を快勝。会場で観戦し、そのすさまじいプレーに圧倒された。しかし、ナイジェリア戦後のドーピング検査に引っ掛かり、大会からの追放処分が決まった。会見で涙を浮かべながら無実を訴えていた姿が印象に残っている。結局、これが彼にとって最後のW杯となった。

 思えば、マラドーナの事実上の世界デビューとなった、1979年のFIFA世界ユース(現U―20W杯)日本大会を生で見ている。大宮サッカー場や決勝が行われた国立競技場のソビエトとの決勝…。当時ボロボロの芝だった日本のピッチで彼のプレーが見ることができたというのは、今となっては信じられない。当時19歳、その次元を超えたプレーにはただただ驚くばかりだった。

 世界舞台での華々しい始まりと、悲しいエンディング。ボストンでの怒りの表情とはじける笑顔。最後の涙。それを生で見ることができたのは、ちょっとした自慢でもあり、切なくもある。