カズがわずか1年でイタリア1部・ジェノアを退団した真相

2020年04月28日 16時40分

1994年8月、カズ(右)はイタリアで始動

【多事蹴論:連載1】サッカー界で起きたさまざまな問題や事件、話題、知られざるエピソードについて本紙担当記者が迫る新連載「多事蹴論」がスタート。第1回は1994年に当時、世界最高峰リーグと言われたイタリア1部のジェノアに移籍した“キング・カズ”こと元日本代表FW三浦知良(53=横浜FC)の“退団後”を裏話や後日談を交えて徹底検証した。

 1982年に15歳で単身ブラジルへ乗り込んだカズは86年に同1部の名門サントスとプロ契約を結んだ。その後、数々のクラブを渡り歩き、90年に読売クラブ(後のV川崎、現J2東京V)に入団。日本サッカーをアジアトップへ引き上げるとともに、プロサッカーが発足した93年にはJリーグとアジアサッカー連盟(AFC)の最優秀選手賞(MVP)を受賞した。その功績もあって94年夏、イタリア1部ジェノアへ移籍し、念願の欧州進出を果たした。

 当時「世界最高峰リーグ」と言われたイタリアには世界中のスター選手が集結。アジア人初参戦となったカズの挑戦は大きな注目を集めたが、ケガやチーム事情もあって本来のパフォーマンスを発揮できず、地元メディアから「壊れた木馬」(役に立たないの意)とやゆされるなど、わずか1得点と散々なシーズンを過ごした。チームも2部に降格し失意の帰国が確実視されていた。

 しかし、その裏では同1部トリノへの移籍が現実味を帯びていた。実父でカズの代理人も務めた納谷宣雄氏も「その話はあった」と認めていたように、水面下で交渉していたという。ジェノアでは結果を残せなかったものの、ブラジル時代に活躍した全国選手権でのプレーやコリチーバ時代にパラナ州選手権制覇に貢献するなど、当時のパフォーマンスが高評価されていたからだった。

 実際、ブラジル時代にもイタリア行きが浮上していたという。カズは本紙に「他のブラジル人選手と3人セットでイタリアに移籍するという話があった」と語る。ただ「パス(保有権=現在は原則廃止)の完全買い取りが向こうの条件だった。そうなると今後、行き先を自分で決められなくなる恐れがある。それで断った」と話したが、当時からイタリアでは注目の存在だったわけだ。

 カズ自身も世界最高峰の舞台で成功を目指してきただけに1年目の“失敗”を糧に再挑戦したい意向もあった。しかしシーズン後の95年夏にV川崎(現東京V)へ復帰。Jリーグで再始動する決断を下したのはなぜだったのか。カズは「もちろん、やってみたい気持ちもあったけど、もともとレンタル(1年の期限付き移籍)だったし、ナベツネさんとの約束もあったからね。(イタリアでプレーするのは)1年だけだぞって…」と本紙に語っていた。

「ナベツネさん」とはカズが所属していたV川崎の親会社の一つ、読売新聞社の渡辺恒雄社長(当時)のことで、仲人も務めてもらった恩人だ。当初は人気絶頂のJリーグをけん引する象徴的な存在だったため、海外移籍を猛反対されていた。それでも、イタリアで挑戦したかったカズは熱意を伝え、最終的には期限付きで承認を得たという。

 こうした経緯があるだけに、カズは2年目のシーズンに臨む決断ができなかった。95年夏に復帰したスターはV川崎の第2ステージ制覇に貢献。自身も26試合23得点と大爆発したが、あのままイタリアでプレーしていたらきっと日本サッカーの歴史も違ったものになっていたはずだ。