サッカー日本代表の森保一監督(50)が初陣となる国際親善試合チリ戦(7日、札幌)、同コスタリカ戦(11日、大阪)に向けて3日から本格始動。2020年東京五輪代表監督を兼務する指揮官を選手時代に指導した元日本代表コーチの清雲栄純氏(67)が本紙インタビューに応じ、秘話を公開した。さらには2010年南アフリカW杯で日本代表監督を務めた名将、岡田武史氏(62)との比較にも言及だ。

 ――ハンス・オフト監督時代に代表へ抜てき

 清雲氏:無名(の選手)だったが、キャンプを重ねるにつれて彼の役割がみんなに浸透していった。(A代表デビューの1992年5月)アルゼンチンとのテストマッチで起用されたときにはみんな驚いたが、チームのバランサーとして味方をサポートする動き、規律を持った動きなどは皆がすぐに認めた。

 ――当時はどんな選手だったか

 清雲氏:ラモス(瑠偉)が(チームの)心臓なら森保は肺臓の役割。相手の攻撃の防波堤になり、視野の広さや攻守にわたり味方をサポートする能力は他の選手が持っていないものだった。(主力の)ラモスや柱谷(哲二)、井原(正巳)たちと相当な密度のコミュニケーションを取っていた。

 ――コミュニケーション能力が高い

 清雲氏:彼は“オープンマインド”で先入観を持たずに誰の意見も聞く。他人の話に耳を傾けることにたけていた。そして誰とでも話せる。最初のキャンプから臆することがなかった。カズ(三浦知良)とかラモスとか哲(柱谷哲二)とか井原とか、実績を残してきた選手とも積極的に議論をしていた。よく「何がダメだったんですか」と話をしていた。どんどんコミュニケーションを取ることでチームの成熟にもつながっていった。

 ――その経験は指導にも生かされている

 清雲氏:それは感じる。戦術の理解力や試合の流れを見極める力は代表で相当培われた。彼はおとなしそうに見えるけど、ピッチではアグレッシブだから。選手に対して“闘う”ことを植えつけられる指導者で人間力がものすごく高い。ドーハの悲劇? 一つの大きな失敗を経験したことで、失敗を恐れないメンタリティーを備えた。

 ――オフト監督からの影響も大きい

 清雲氏:オフトさんはすごくシンプルにものを伝える。「スモールフィールド」「スリーライン」「コーチングイーチアザー」とか。シンプルな言葉で選手に分かりやすく伝え、キーワードを共有していた。オフトさんの影響でそういう指導者になっている。仕事の役割をはっきりさせ、チャレンジさせる、ストロングポイントを伸ばすという部分は共通している。

 ――市原(現千葉)監督当時、岡田武史氏がコーチを務めた。2人をよく知る立場から、監督としての資質はどうか

 清雲氏:「オープンマインド」と「プレーヤーズファースト」の態度を持ち、選手の精神を整えるのがうまいのは共通しているが、岡田は常に窮地に立たされて批判を受ける状況で、開き直りの精神を持ち、現実を見て変えていく。何事にも動じない岡田はまさに“剛”だった。対して森保はバランサーとしての経験が豊富で非常に柔軟性が高い。岡田とは対照的とまで言わないが“柔と剛”でタイプは全く違う。違う形で指揮していくんじゃないか。

 ――兼任で成功するために必要なことは

 清雲氏:(協会が)サポートする体制を今以上につくることを期待したい。サポーター、メディアなどオフザピッチのところ。選手とコーチングに集中できるような環境をつくるために、ケース・バイ・ケースでサポートしてもらえればうれしい。

 ――森保ジャパンのキーマンは誰になる

 清雲氏 青山(敏弘=32、広島)は選手としても森保とよく似ている。かじ取りのポジションで長谷部(誠=34、Eフランクフルト)もそう。そういう選手を置くことでチームが安定し、必ず上昇していく。広島で一緒にやって森保をよく知っているし、若い選手に大きな刺激を与えられる。

 ――森保監督に対する今後の期待は

 清雲氏:私から贈る言葉は「Do it」。どんな状況に置かれても「森保、やるしかないぞ」と言いたい。今までの経験を東京五輪、カタールW杯予選に思う存分ぶつけてもらいたい。

☆きよくも・えいじゅん=1950年9月11日生まれ。山梨県出身。日川高校(山梨)時代はラグビー部とサッカー部を掛け持ち。同級生に故ジャンボ鶴田さんがいた。法大ではサッカーに取り組み、卒業後は古河電工(現J2千葉)入り。74年に日本代表デビューし、国際Aマッチ出場42試合。84年から古河電工の監督に就任し、85年にリーグ優勝、86年にアジア制覇を果たした。92年にオフト監督率いる日本代表コーチに就任。93年に“ドーハの悲劇”と呼ばれた米国W杯アジア最終予選敗退を経験。現在は法大スポーツ健康学部教授を務める。