池尻浩一。福岡県登録63期の競輪選手だ。高卒後は国立大学に現役合格したがそれを蹴って競輪学校へ。競輪選手になって輪界最高峰のレース「KEIRINグランプリ」にも出場し、一流選手の称号も得た。その後は突然のがん宣告にも屈せず、強靱な回復力を見せてあっという間に現役復帰。そして現在は競輪選手として活躍し、さらには福岡県広川町の町会議員としての活動もしている。病魔と闘いながらもあえて多忙を極める道を進む池尻の素顔に迫った。

 競輪華やかなりしころの福岡県八女郡で生まれ育った。八女はお茶の産地として知られ、自然あふれる地域。そして久留米競輪場(福岡県久留米市)が目と鼻の先にある。池尻少年の周囲は自転車の世界選手権で10連覇の偉業を成し遂げた久留米の超スター・中野浩一氏の話題で持ちきりだった。

「子供のころから周りが『ナカノコウイチ、世界のナカノ』と言って騒いでいて、それで自分も競輪選手になろうと思ってました。高校では、身体能力を生かす適性試験で競輪学校を受けるために陸上部に入ったんです」

 県立八女高校では競輪選手になるための体づくりに励んだ。そしてなんと陸上に打ち込みながらも、競輪学校と同時に国立大学に現役合格した頭脳を併せ持つ。

「母親の反対もあって、受験勉強も並行して続けていたんです。熊本大学も合格して、競輪学校に合格していなかったらそっちに進んでましたね。大学に行った場合は卒業時にもう一度、親にお願いして競輪学校を受けたかも…」

 ただし競輪学校に入れたとはいえ、順風満帆だったわけではない。「学校時代の成績は良くなくて(在校成績100人中42位)S級に上がれた時には、同期から良かったなと言われたくらい」。そんな選手だったが2000年(現役選手数4217人)と02年(3944人)の2回、その年のベスト9選手で争われる競輪界最高峰の「KEIRINグランプリ」に出場するほどに成長した。

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 周りにすごい男たちがいたことが、池尻を引っ張り上げた。「とにかく環境がすべてだったと思う。デビューした時は中野浩一さんもまだ現役だったし、ダービーを勝った小川博美(引退)さんに、近所の平田崇昭さん(55期)にも、ものすごくお世話になった」。そして池尻とともに“久留米3羽ガラス”と呼ばれた、紫原政文(61期)、加倉正義(68期)の2人の存在が欠かせない。

「この2人は絶対に頂点を取る、という気持ちで毎日練習していた。そういう中で練習できていたのが一番大きい。ただ3人の中では一番欲が少なかったかな(笑い)」

 同世代の仲間がすべてをささげて取り組んでいる。それに引っ張られてトップレーサーの地位に。「GPを走るなんてS級に上がるのが目標だった選手だから驚きですよ。特別競輪(現在のGⅠ、GⅡ)を走れるようにもなっただけでもうどれだけ頑張ったんだと思っていたのに」と、自分で自分を褒めたいほどの選手生活を送った。

 そんな池尻を病魔が襲った。09年10月に受けた検診で異変が発見された。告げられた病名は「胃がん」だった。「40歳の時の定期検診で運よく見つかった。手術で胃の3分の2を摘出した」。手術を受けたのが12月2日。もちろん引退も考えた。それどころか死ぬんじゃないか、と残される家族のことを考えた。

 だが驚異的な回復力で、翌年1月末には復帰を果たした。「病気で競輪人生に一区切りついたと思いました。GPに出た時にA級に落ちたらやめようと決めたんです。S級を維持できない体力なら、やめてほかのことをしようと」。ただ、もう一度S級でできる限り、と歩み出した。

「40歳になってデビュー当時の練習をして体力をつけて、と。今でも調子が良ければまくりも出るくらいだし、筋力を落とさないトレーニングはできる。あとは、疲れを残さずに調整して開催に入れるかどうか」

 病に屈して引退する道など、最初からこの男の人生にはなかった。誰にも負けない底力で今でも競輪を楽しみ、激しい勝負を“普通に”繰り広げている。

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 GPに出場し、胃がんを患い山あり谷ありの人生だが、まだある。「子供の面倒を見るにあたって、PTAの会長とか、地域の教育委員とかをやっていた。その流れで周囲から推されて広川町議会の選挙に出ることになった」。競輪選手として現役を続けながら、しかも胃がんを克服した体で、議員として故郷へ貢献しようと立ち上がったのだ。

 人一倍の責任感。自分の町を良くしたい。熱い思いは伝わり、11年12月4日の福岡県広川町の町議会議員選挙で、トップ当選を果たした。「トップ当選は驚いたし、とにかくそんなに期待して選んでいただいたんだというプレッシャーがあった。1年目は大変なことばかりだったけど、2年目からは何をやればいいか分かってきたし、何ができるか分かってもらえることで、お願いとかも増えてきた」

 持ち前の頭脳と責任感で、今や広川町になくてはならない存在になった。「常に他の地域とはどう違うとか、国の流れと合っているのかとか、町の行事などに参加して考えている」と多忙の極みだが、瞳は輝く。「休みはないし家族には迷惑をかけているが、充実している。こんな経験は普通ではできない」。人生の極限を歩む男の背中はあまりにも尊い。

「競輪と議員の両立をやってこそだと思っている。まさに二足のわらじで、2つは全く別物で関わることがない。任期は4年なので、まずはあと2年。その先のことは全く考えられない」

 この男は、人間の可能性はまさに無限大であることを教えてくれる――。

☆いけじり・こういち=1969年4月6日、福岡県生まれ。福岡県立八女高校卒。176センチ、80キロ。2000、02年KEIRINグランプリ出場。00年GⅠオールスター競輪(高知)決勝2着、02年オールスター競輪(熊本)決勝2着などGⅠ戦線でも活躍。2101戦336勝、2着350回、3着300回。獲得賞金8億1145万9800円(2013年12月26日現在)