引退・中西が我が後輩!東京五輪アスリートへ激白 求む!野人後継者

2020年01月08日 16時30分

シチリアの海に日の丸ブリーフ姿で飛び込んだ野人・中西(05年6月)

 野人から去りゆくマット界へ――。2月22日の東京・後楽園ホール大会で現役を引退する新日本プロレスの中西学(52)が、本紙に偽らざる胸中を語った。2011年6月に「中心性脊髄損傷」の大ケガを負って以降、もどかしさを感じながらリングに立ち続けたが、最後まで貫こうとした理想のプロレスとは何だったのか。さらには日本プロレス界最後の五輪戦士として、2020年東京五輪に出場するアスリートに“熱烈オファー”を出した。

 日本人離れしたパワーと、圧倒的な存在感からついたニックネームは「野人」。だが首に重傷を負ってからは、思うように動けない日々が続いた。選手生命の危機とも言われた大ケガから2012年10月にマットに復帰できたこと自体が驚異的だったが、追い求める姿には最後まで戻れなかった。好きなプロレスにけじめをつけないといけないとの責任感から、18年末から団体と引退について話し合ってきた。

 中西:思うような試合ができない、自分が熱くなる試合ができなくなったのが一番。分かりやすくて熱くて。ボブ・サップみたいなやつ持ち上げて、ブン投げてっていうような戦いができなくなったら…キツかったね、気持ちが。ブロック・レスナーともやったし、ジャイアント・バーナードともやったし。楽しかったな。小学校の時から見てきて、技うんぬんではなくすごさが伝わるのがプロレスちゃうかなって思ってたんや。

 永田裕志(51)、天山広吉(48)、小島聡(49)とともに「第3世代」と呼ばれ、切磋琢磨してきた。3人が3人とも「寂しいけど、決めたことなら仕方ない」と言ってくれた。中西は「彼らには一年でも長くやってほしい」と話す。プロレスがいい時代も悪い時代も新日プロ一筋を貫き、戦い続けた。格闘技人気に押され、暗黒時代と呼ばれた03年6月には慣れないK―1ルールにも挑戦した。

 中西:いろんなことができて面白かったよね。当時からいい思い出よ。出たとこ勝負や。しかし俺がキックっていうのもなあ(笑い)。キック出そうとしたら、タックル入ろうとしてしもうて。でも当たって砕けるしかないしね。一番の思い出っていったら、ホンマはその瞬間のこと言わないとあかんのやろうけど…新日本で27年もできたってことよ。俺は新日本以外考えられへんかった。

 フリースタイル100キロ級で1992年バルセロナ五輪に出場したレスリングエリート。日本プロレス界では現役で唯一の五輪経験者だ。レスリングは重量級選手の五輪へのハードルが高く、また近年は五輪アスリートがプロ転向するのは格闘技と相場が決まっていた。しかし現在は新日プロも人気が復活し、受け入れる土壌は再び整ったように見える。だからこそ、後に続くプロレス転向者を熱望する。

 中西:俺の後に五輪で活躍して、プロレスラーになった人がいないんだね? 俺のイメージが悪すぎるからか(笑い)。まあ、今は環境も良くなってアマチュアの選手寿命も延びてると思うけど、プロレスの選手寿命も延びてるからね。重量級で強くなってる選手がぜひ来てほしいよね。今はブシロードクラブもあって環境も整ってるし。つまずくこともあるけど、俺は根本的にプロレスが好きだからね。面白いで、プロレスは。

 引退後については京都で家業の茶農家を手伝うことも検討しているというが、全くの未定。今後、団体と話し合いながら決める意向だ。ともあれ今はラストマッチまで己の信じたプロレスを全うすることに専念する。

 引退試合の会場は、09年5月にIWGPヘビー級王座を獲得した後楽園ホールだ。中西は「思い出の場所で幕を引けるのはありがたいし、格闘技の殿堂やしね。そんなとこでプロレス人生を終えることができるのは最高やね」。多くのファンに愛された野人は、最後の最後まで全力ファイトで駆け抜ける。

☆なかにし・まなぶ 1967年1月22日生まれ。京都市出身。92年バルセロナ五輪出場後の8月に新日本プロレスに入団し、同年10月にデビュー。99年にG1クライマックス制覇、2009年にIWGPヘビー級王座を奪取するなどパワフルなファイトスタイルで活躍。東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞では敢闘賞(99年)と最優秀タッグ賞(10年)を受賞している。必殺技はアルゼンチンバックブリーカー、大☆中西ジャーマン。186センチ、120キロ。