【お宝写真館】ドラゴンゲート上半期最大のビッグマッチ「金網サバイバル・ダブルリスク6WAYマッチ」(5月5日、愛知県体育館)が目前に迫った。金網サバイバル戦はドラゲーの看板マッチ。当初は「金網脱出順」を争って勝敗を決めていたが、軍団抗争が複雑化を極める現在では、ルールも超難解なものに変化した。とにかく実際に見ていただくのが一番である。

 金網デスマッチの元祖といえば国際プロレスだが、ちょっと他の要素を加えてしまって失敗した例もある。写真は日本初の「金網インディアンストラップマッチ」(1973年11月28日、横浜文化体育館)で“大酋長”ワフー・マクダニエルがグレート草津を流血戦で圧倒。勝負を決めようとリング上を引きずり回している瞬間だ。

 ここから3年前の70年10月8日、ラッシャー木村がドクター・デスと日本初の金網デスマッチを敢行し、以降は国際プロの看板となった。インディアンストラップマッチは日本初公開だったが「お互いの腕を4メートルの革ヒモで結んで試合を行い、勝敗はギブアップかダウンした相手を引きずってリングを2周した時点で決める」というルールと試合形式は、何だかややこしかった。しかも攻防は金網内。戦う選手も行動範囲や技が限られる上、見る側にも分かりにくいことこの上なかった。

 当時は米国AWA地区で“大酋長”の異名を取りデスマッチで大暴れしていたマクダニエルは大流血戦に持ち込んで試合の大部分を制していながら、レフェリーと衝突するハプニングからブレーンバスターを食らい、草津に逆転勝利を許してしまう。当時の本紙記事を見ると「日本初と銘打ったデスマッチにしては、幕切れはあまりにあっけなかった。(中略)さんざん荒れ狂ったマクダニエルに頭にきたのか『何だもう終わったのか』『死ぬまでやらせろ』とファンが騒ぐ」とかなり辛辣だ。

 現場やテレビ中継での不評もあって、結局国際プロレスにおける「金網インディアンストラップマッチ」はこれが最初で最後となった。要するに当時は金網なら金網、単純明快なものが一番だったということだろう。それを考えるとドラゲーの複雑な金網戦が人気を集めている現在は、まさに隔世の感がある。