ドラゴンゲートの〝スピードスター〟吉野正人(41)が神戸ワールド記念ホール2連戦(7月31日、8月1日)で現役生活にピリオドを打つ。惜しまれつつリングを去る男は今、何を思うのか。忘れられない激戦、そして袂を分かった仲間たちへの思いを聞いた。


【吉野正人インタビュー(中編)】

 ――レスラー人生を振り返って

 吉野 闘龍門から含めてドラゴンゲートになって、シングルからタッグ、6人タッグと全てのベルトを取れたのは大きかったですよね。団体最高峰のドリームゲートも巻けましたし、やってきてよかったなって。

 ――思い出の試合は

 吉野 08年(11月)に大阪でやったドラゴン・キッドとのブレイブゲート戦ですね。試合中に背骨が3本折れて、折れてからも10~15分くらい試合してたんじゃないですかね。キッドのウラカン・ラナを食らったときに胸椎と腰椎を圧迫骨折してしまって、確実にヤバイなというのは分かったんですけど、アドレナリンも出てたし、やれるとこまでやってダメだったらしょうがないなという気持ちで最後まで戦って。その試合は一番記憶に残ってるというか、自分の中で上位を争うくらい頑張ったんじゃないかなと。

 ――当然そのまま試合後に病院直行したのか

 吉野 いや、それがその日が日曜日か祝日だったかで、救急で病院行ってもレントゲン撮って診断するだけで、治療してもらえるわけでもないじゃないですか。だからその日は病院行かなかったんです。でまあ、平日になって行ったら横突起も1本折れてて、合計4本骨折してたんですよね。めちゃくちゃ痛かったですよ。逆に先生に驚かれましたよ。「よくこんな状態で病院に行かず、今来たよね」と。「(本当なら)速攻入院だよ」って。

 ――代名詞は卓越したスピードで「スピードスター」の異名を取った

 吉野 もちろん人間なので年齢を重ねるにつれて落ちてくるのは当然だと思うんですけど、スピードスターが動けなくなったらスピードスターではないので。自分はこのニックネームに誇りを持ってやってきましたし、スタイルを変えてまでプロレスを続けることは自分の中では(選択に)なかったですね。もしスタイルを変えてやれば、あと数年くらいはできたのかもしれないですけど。

 ――そのこだわりはデビュー当初から

 吉野 それが違うんですよ。05年とかくらいですけど、アメリカのROHに行った時からですね。全然それまでスピードは意識してなかったんです。でもアメリカではロープに走っただけで、ものすごい歓声だったんですよ。「え、そんなに俺速いの?」みたいな。そこから日本でもスピードスターと言われるようになって、スピードを意識した試合スタイルを自分の中でつくり上げていった感じです。

 ――海外でも「地球一速いレスラー」と高く評価された。ドラゲー出身ではPACやリコシェが米国で活躍。吉野選手も挑戦したいと思ったことは

 吉野 海外に定着するというのは考えたことはなくて。行ったり来たりしてる自分が好きでしたね。海外と日本をまたにかけて、俺プロレスラーやってるな、みたいな。

 ――キャリアのなかで印象に残っている対戦相手は

 吉野 トップ2で言えば、それこそ今名前の出たPACとリコシェじゃないですかね。同じユニットとして過ごした時間も長かったし、彼らの存在は大きいですよね。もともとの運動神経も違うし、日本人にはできないことを簡単にやってしまう。プロレスセンスも運動神経も、オーラや華やかさも全てを兼ね備えていたのがあの2人だったと思います。

 ――後輩の戸澤陽もWWEで、また鷹木信悟は新日本プロレスで活躍しているがどう見ているのか

 吉野 正直うれしいですよね。行ったはいいけど挫折してたらなんとも言えない感じですけど、2人とも関係者、ファン誰もが認める存在になってくれているので。彼らが行動を起こしたことは間違いじゃなかったと思ってます。挑戦した勇気というものはすごく評価してます。(後編に続く)


 ☆よしの・まさと 1980年7月17日生まれ。大阪・東大阪市出身。大学中退後にメキシコに渡り闘龍門7期生として入門。2000年9月にメキシコでの伊藤透(現・大鷲透)戦でデビュー。中量級のブレイブゲートの絶対王者に君臨し、10年の初戴冠を皮切りに団体最高峰のドリームゲート王座を4度手にした。13年度の東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」では技能賞を受賞。必殺技はソル・ナシエンテ改。172センチ、77キロ。