新型コロナウイルスの感染が拡大するなか、大日本プロレスは16日に団体の“聖地”横浜文化体育館で旗揚げ25周年記念大会を開催した。25年前は団体乱立の時代で、マット界は空前のインディブームを迎えていた。

 当時、関係者は「どの団体も、もって数年か」とささやいていたものだが、大日本だけは格が違った。現会長のグレート小鹿が頑丈な鉄筋のごとく団体の中心に立ち、“ケンカ最強伝説”を誇るケンドー・ナガサキ(故人)が脇を固めていたからだ。明らかに他のインディ団体とは一線を画していた。この人たちは本当に強くて怖かったのである。では25年前の1995年3月16日、横浜文化体育館で行われた旗揚げ戦はどうだったのか。

「所属選手はナガサキ以外練習生が3人。第1試合では、練習生の谷口裕一がデビューを果たすも川畑輝鎮にあっさり敗れてしまった。全8試合のうち、大日本の選手によるものはわずか2試合で、東京プロレス、SPWF、IWAジャパンの助けを借りての船出だ。メインの“バラ線パーフェクトフォールデスマッチ”は公開抽選でナガサキと中牧昭二が組み、ロン・パワー、アイスマン組と対戦。果てしない場外戦ではイスや机が乱れ飛び、最後はパワーがカットしたバラ線をナガサキが強奪。アイスマンの首に巻きつけて絞め上げ、脳天杭打ちで仕留めた。血みどろの試合を見届けた観衆は3550人。6割程度の入りだったが、反応はまずまずだった」(抜粋)

 その後、大日本はバーリトゥード路線、女子部設立、新日本プロレス殴り込み、デスマッチ路線、ストロングスタイル部門確立と、波瀾万丈の歴史を歩み現在に至る。2011年には営業からレフェリーまで兼任していた登坂栄児統括部長が社長に就任。経営を軌道に乗せた。

 小鹿会長は団体が成長した最大の理由に、筋肉男・関本大介の入門(99年)を挙げる。「関本一人が全てを変えちまった。朝昼晩、試合後と練習を続けるあんなバカは見たことがない。必死だから同年代や下の連中もついていくしかなかった。その姿にはオイラも涙が…」。その後に岡林裕二が入門。練習量はどの団体にも負けず、強靱な肉体を誇るファイターを輩出した。

 現在は所有する巡業バス1台とトラック2台が故障中で旗揚げ以来最大の危機を迎えるも、登坂社長は「我々は燃え尽きません。燃え続けます!」。必ずやこのピンチも乗り越え、やがて50周年記念大会の日を迎えてくれるはずだ。その時、小鹿会長は102歳だが、きっとピンピンしているだろう。