全日本プロレス所属の世界ジュニアヘビー級王者、青木篤志さん(享年41)が3日夜に東京・千代田区内で交通事故死し、マット界に衝撃を呼んだ。関係者は深い悲しみに包まれたが、青木さんと最も近い関係にあった“暴走男”諏訪魔(42)と、和田京平名誉レフェリー(64)が4日、本紙の取材に生前の知られざるエピソードを明かした。青木さんが描いた将来の夢、死の前夜に起きた奇跡的な出来事とは――。

 青木さんは3日午後10時半ごろ、東京・千代田区内の首都高速都心環状線外回りをオートバイで走行中に、右カーブになっていたトンネル出口手前の側壁に衝突。約1時間後に、搬送先の病院で死亡が確認された。月1回放送のインターネット番組、ニコニコ生放送「青木篤志の毒演会」に出演するため同区内のスタジオに向かっている途中だった。家族の意向で事故の詳細は明かせないというが、番組の開始時刻が午後10時半だったことを考えると、青木さんが急いで向かっていた可能性が高い。

 憔悴しきった様子で取材に応じた諏訪魔は「頭が真っ白だよ。早すぎる…」と肩を落とした。ユニット「エボリューション」の仲間であり、プライベートでは趣味の合う親友だった。「海、アメ車、バイク、ウイスキー、レスリング…何から何まで好きなものが同じでさ。ウイスキーなんて1本空けても平気でけろっとしてた。しょっちゅうつるんでツーリングに行った」と振り返る。

 2016年に諏訪魔が右アキレス腱を完全断裂し、長期離脱していた時だ。青木さんも団体内の立場に悩みを抱えており、2人で「プロレスを辞めてステーキ店でもやろう。プロレスラーといえばステーキだ」と話したことがある。

 だが青木さんには「長期欠場する時が引退する時」という信念があり、結果的に欠場することはなかった。このストイックな性格は、時に諏訪魔にも向けられ「先輩、リングでもっと自分を出してくださいよ!」と叱責することもあった。

 行動力もあり「(米フォード社の)マスタングのオープンカーをポンと買ったりしていた。思い立ったらすぐ動くから」。今年5月には「キャンプするのにいい場所ないですか?」と相談された諏訪魔が「新島は?」と提案するや、1週間後には本当に新島へ1人で渡った。

 諏訪魔が主宰する中学生までの子供を対象にした「横浜デビルズJr.レスリングクラブ」では、指導者として一緒に活動した。「あいつは的確に分かりやすく指導するから好評で。レスリングは一番最初にどんな指導を受けるかが重要。だから必ず最初はあいつが指導した。オリンピック選手を輩出するのがあいつの夢だったけど…これからだよね。指導を受けた選手がこれから活躍して五輪選手になってくれると思う」と思いをはせた。

 和田レフェリーは「プロレスが好きで好きで仕方ない。今の若手の台頭も青木が指導に当たってくれたからですよ」と語る。自衛隊出身者らしく、後輩には厳しく目上を立て、礼儀を重んじる選手だった。「何に関しても『京平さん、僕がやりますから』って年寄りを立ててくれた。だから手が合ったのかな」
 死去の前日、シリーズ最終戦となった2日の神戸大会終了後には、青木さんのほうから「いつもの店、行きますか?」と問いかけてきた。和田氏は神戸大会のたびに「大阪王将」で青木さんや佐藤光留(38)と食事をともにしていた。だがこの日は状況が違った。

「いつもは4~5人。でも最終戦だし、外国人も呼ぼうって話になったんだ。最終的にはほとんどの選手が集まった。そんなの初めてですよ。何でああなったのか不思議で仕方がない…」。青木さんは同じテーブルに座った若手の大森北斗(23)にプロレス談議を延々と続けた。これが“最後の晩餐”となった。

「実は前日(1日)にも一緒に焼き肉屋に行ってるんですよ。今思えば、神様が仕組んでくれた奇跡だったのかな。北斗には『お前、道場と会場と、飯の席でまで青木に教えてもらって幸せ者だぞ』って言いました。24時間プロレスのことを考えてたから。チャンピオンになって、もう一度全日本のジュニアを追求するって言ってた矢先だったのにね。実感がない。まだ信じられない…」

 ファンだけでなく選手、スタッフにも愛された青木さん。その功績は永遠に語り継がれる。

☆あおき・あつし=1977年9月25日生まれ。東京・大田区出身。故三沢光晴さんらの超世代軍に憧れ、東京実業高でレスリング部に入部。卒業後は自衛隊でレスリングを続け、2005年5月にノアに入門。同年12月24日のディファ有明大会でデビューした。12年末の退団後は全日プロに移籍し、アジアタッグ王座(3度)、世界ジュニアヘビー級王座(4度)を獲得した。独身。170センチ、85キロ。