大横綱・大鵬と天龍

2013年01月26日 11時49分

【プロレス記者の独り言】昭和38年12月、島田(天龍源一郎)少年は、13歳の時に“日本マットの祖”力道山の訃報を聞きながら風雲の志を抱いて福井・勝山の古里を跡にして大相撲の世界に飛び込んだ。部屋は力道山がかつて所属していた二所ノ関部屋だった。

 13歳の少年にとって相撲部屋での生活はカルチャーショック以上であった。当時、二所ノ関部屋で横綱だったのが、去る19日に亡くなった大鵬。「大鵬のように強くなりたい」の一心で稽古に励んだのは自然のながれだろう。2〜3年も立つと相撲界でやっていける自信もついてきた。

 相撲に対する思い入れ、勝負哲学、稽古の仕方、後援者との付き合い方、ちょっと早いが酒の飲み方と総てが大鵬が基準となり、真似るようになっていったのはしかたがない。大鵬は相撲界にはびこる「ごっちゃん体質」を嫌ったが、天龍もプロレス界に身を投じてから「ごっちゃん体質」を忌み嫌った。酒も食事も身銭を切って仲間のレスラーや新聞記者、カメラマンたちと豪快そのものだった。ある時などは後援者と食事をしたが、天龍は支払いを何げなく済ませ、お車代まで渡していた。

 天龍は相撲崩れ、相撲上がりという言葉を嫌い「俺は大相撲出身者」と言っていたものだ。そんな天龍が「相撲は瞬発力でプロレスは持久力だ」というフレーズも嫌ったのは意外と知られていない。これまた人間離れした大鵬のスタミナの凄さを目にしたからだ。

 横綱・大鵬は当時5大関を相手によく稽古を積んだ。ある時、大鵬は一杯の水を口に含み北葉山、佐田乃山、栃ノ海、栃光、豊山らを相手に申し合い。約30分間ほど5大関を相手に右に左に投げ捨て土俵に仁王立ち。ひとつも息を乱さず稽古を終えると口に含んでいた水をピュッと吐き捨てたのだ。激しい申し合いで一回も口を開けなかった大鵬。それを見て「人間、鍛えればここまでになるんだ」と天龍。

 その後、二所ノ関部屋の後継問題に巻き込まれ大相撲界と決別しプロレス界に身を投じた天龍。全日第三の男と言われたが、馬場、ジャンボ鶴田との差は埋めようがなかった。それでも御大・馬場は天龍の将来性を疑わず電車での移動となればグリーン席を用意した。昔は地方巡業でよく行われていたのが、客集めの意味を込めたサイン会。天龍はいつも鶴田の添え物という形だった。

 確か昭和50年代後半の頃だったと記憶している。杜の都・仙台のデパートで鶴田と天龍がサイン会でペンを走らせていた時、一際大きな男が人だかりの後から覗き込むようにしていた。新弟子のスカウトに仙台を訪れていた大鵬親方だ。気づいた天龍は人だかりを蹴散らして一直線。米つきバッタのように頭を下げていた。

 記者はその時、大鵬親方に「天龍はいかがですか?」と聞いた。「いい顔してたよ。そのうち爆発するんじゃないか」との言葉が返ってきた。その数年後、天龍は“人間風車”ロビンソンのパートナーに指名されて馬場、鶴田のPWFタッグ王座に挑戦して大ブレーク。阿修羅・原とのコンビで全日マットに革命を起こし、押しも押されもせぬ日本マットのメーンイベンターになっていく。その姿を一番先に予見していたのは他ならぬ大横綱・大鵬だったのだ。

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