【高田延彦統括本部長が告白する激動の人生「Road to RIZIN〜出てこいや!〜」18】引退試合は2002年11月24日、東京ドームでの「PRIDE・23」で行いました。対戦相手は田村潔司。最後の相手についてはいろいろ浮上しましたが、私自身はそんなに悩むことはなく「田村なら全然ありがたい」という気持ちでした。

 当時としてはちょっとコアな選択だったと思います。私と田村とのストーリーを知らないPRIDEファンもたくさんいましたから。でもUインター時代に、田村が挑戦を表明してきたこと(1998年8月18日)があって、その時は受けてあげられなかった。“宿題”みたいな気持ちも少なからずありました。

 結果は2RでKO負けでしたけど…。それにしてもあの“へそ曲がり”がよく出てきてくれたなと思いますよ(笑い)。今でも彼には「ありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいです。やりにくかったと思いますよ。

 ちなみに当初はPRIDEの主催者側から「メーンでやってくれ」と言われたんですけど、断りました。あの時のPRIDEで、引退試合なんかメーンに持っていったらお祭りになってしまうし、私には荷が重すぎる。「メーンは桜庭(和志)しかいないだろう」と私から言いました。

 実は当時、彼はヒザの靱帯を断裂してたんです。欠場してもおかしくない状態だった。でも「高田さんの引退だから出る」って言ってくれたんですよ。ケガの状態は分かっていたから胸が熱くなりましたね。であれば、メーンは桜庭しかいない。彼も「僕はメーンじゃなくて」という話はしていたみたいなんですが、結局私はセミで、メーンが桜庭(ジル・アーセン戦)になりました。

 鮮明に覚えていることがあります。あれには参っちゃったけど…。引退セレモニーが終わってバックステージに戻る時、ちょうど桜庭とカーテンの向こう側ですれちがった。するともう入場テーマがかかっていたのに、彼が泣いてたんです。数秒後にカーテンが開いて、人生をかけた戦いへと向かうにもかかわらず…。私も感傷的になって、込み上げてくるものがあった。PRIDEでも私の中で強く残っているワンシーンですね。

 引退後、私はPRIDEの統括本部長として大会に関わらせてもらいました。でもやっぱり…選手のほうが100倍いいです(笑い)。好きなこともわがままも言えるし、やりたいようにできる。やっぱり、あそこは選手でいたい空間ですよ。できなくなっちゃうと、いろんなことを考えさせられます。やっぱり「戦う者」としてあの空間にいる以上の幸せはないですね。