【高田延彦連載17】妻・亜紀のがん闘病を振り返ると…

2016年12月28日 16時00分

妻・向井亜紀(右)はその後にがんを克服

【高田延彦統括本部長が告白する激動の人生「Road to RIZIN〜出てこいや!〜」17】1998年10月に2度目のヒクソン・グレイシー戦を終えてからは毎回「これが最後」と自分に言い聞かせながら戦い続けました。対戦相手も強いし、PRIDEそのもののレベルが上がっている。自分がグッドパフォーマンスを見せられないことは分かっていた。それでも求めてくれるのであれば…。そんな1回ずつの積み重ねが、35歳以降の現役生活につながったと思います。

 妻が病魔に襲われたのは2000年9月のことでした。病名は子宮頸がん。もちろん当時は大変でした。私は毎日が練習場と病院の往復で、妻の笑顔や少しでも元気な姿を見たい一心だった。今思うと、そういう生活になると頑張れちゃうんだなって思いますね。苦しいけど、妻のちょっとした笑顔や言葉で疲れが吹き飛びました。

 この時のことを振り返って改めて痛感するのは「気持ち」の重要さ。人間が前に進む時、大きな力を与えてくれる「気持ち」です。当時は必死でしたけど、その中で小さなハッピーを与え合いながら生きていた。

 今ですか? 申し訳ないけど、幸せですよ(笑い)。子供の教育で気を付けているのはあいさつとか、食事のマナーとか、ウソをつかないこととか、基本的なこと。特別なことはありません。日頃から小難しいことは言わないようにしているんです。

 子供は自分で目にして耳にして、将来を選択していけばいい。いろんなことを経験して、自分の頭と心でもみほぐして、いいものを定着させていく。そうやっていくのが一番いいんじゃないかと思っています。

 話をリング上に戻しましょうか。

 ヒクソン戦後に1試合ずつ戦ってきて、引退を決めたのは02年のことです。5月くらいに「次で最後」という話をPRIDEの主催者側にしました。具体的に「これ」という原因はなかった。何がどうさせたかわからないけど、冬が終わるころ「次を最後にしよう」と思ったんです。

 そう考えるということは、もう疲れていたのかもしれない。実は前年01年11月のミルコ・クロコップ戦でローを蹴った時に骨折して右足首がハンドボールくらいの大きさに腫れたんです。結果は引き分けだったんですけど、それが全然良くならないまま、今度は大みそかにマイク・ベルナルドと試合をして引き分けに終わった。

 私は20代後半のころから、40歳で引退したいと考えていた。「プロスポーツ選手は頑張っても40歳までだろう」というイメージがあったから。それで誕生日の4月が近くなるにつれて「あ、もう40近いな。そろそろだな」と急激にそんな気持ちになっていました。

 その意向をくんでもらい、引退試合を02年11月24日、東京ドームの「PRIDE・23」でやらせてもらうことになりました。対戦相手は吉田秀彦選手などが候補に挙がる中、最終的にはUWFインターの後輩である田村潔司に決まりました。