【高田延彦連載9】猪木さんから貴重な言葉をもらった転機の一戦

2016年12月27日 17時00分

入門から1年半、憧れの猪木(下)の付き人となった

【高田延彦統括本部長が告白する激動の人生「Road to RIZIN~出てこいや!~」9】1980年に新日本プロレスに入門した私を待っていたのは、トレーニングと同様に厳しい「増量」の日々でした。

 新弟子時代は慢性胃炎でした。普通にしていても(胃が)うずくんです。毎食、無理やり食べていたから、飯の時間が嫌で嫌で仕方なかった。ボクサーとか格闘家の「減量」って厳しいイメージがありますが、私は「いやいや、増量も厳しいよ」と言いたい。毎食が拷問でした。どんぶり飯を10杯と大量のおかずを食わされて、量が量だから夕食だけで夜7時から深夜12時くらいまでかかるんです。でもそういうことを何年か続けていたら、大したもんで体重は16キロほど増えてある程度の体(77~78キロ)になりました。

 猪木さんの付け人に指名されたのは、入門から1年半ほどたったころです。最初は猪木さんの靴下のにおいを嗅いだりしました。あ、もちろん洗ってから(笑い)。今まで果てしなく遠いところにいた人が目の前にいて、それも試合の道具を預かってお世話をするわけです。当時は考えられないことでした。

 それでもしばらくすると新日本にいることが日常になり、猪木さんの付け人であることも特別でなくなってくる。最初のころは、あの新日本の(紅白の)シャツを着るのが誇らしかった。そこから一つずついろんなことを卒業する。「増量」とか「強くなる」とか、自分の中で目標ができていく。試合のスキルも上げないといけない。

 そんな日々を過ごすうちに大きな転換期が訪れました。猪木さんの付け人になって1年以上がたったころ、試合がしょっぱくて干されてしまったんです。ある地方の試合が終わって控室に戻ると、何人もの先輩からいきなり「何のためにやってんだ」「もう帰れ、辞めろ」と罵倒されました。

 その晩は旅館で涙が止まらなかった。そんなことを言われたのは初めてでしたから。“復帰戦”をさせてもらえたのは、そこから約3か月もたってからです。北海道で試合を組んでもらえました。実はその干されている間に、ある先輩から「若々しさはないし、おとなしいし、第1試合の意味がない。イベントの足を引っ張るだけだ」とアドバイスされました。だからその“復帰戦”では1年先輩の選手と、鼓膜が破れてあごが外れて、鼻血が流れるぐらいの試合をした。

 これで会場が沸きました。猪木さんから貴重な言葉をもらったのはこの試合後です。当時はもう第1試合から見るような人じゃなかったんですが「今日みたいな試合をしろ」と声をかけられました。私は「はいっ!!」と元気よく答えた記憶があります。思えばその日が、私のレスラーとしてのターニングポイントとなったのです。