【高田延彦連載4】野球に代わってプロレスに夢中

2016年12月27日 12時00分

高田延彦統括本部長

【高田延彦統括本部長が告白する激動の人生「Road to RIZIN〜出てこいや!〜」4】うちは父親よりも母親のほうが背が高かったんです。幼稚園の入園式の写真とか見ると、ほかのお母さんより頭がひとつ出ていました。親父は身長160センチないくらい。真面目な人で「無遅刻無欠勤」の賞状が何枚もあった。「曲がったことが嫌い」っていうのが口癖で酔っ払うとよく言ってましたね。

 日本酒をレンジでチンして熱かんにして飲みながら、こたつでそのまま寝ちゃうような人でした。でも、酒豪のうちには入らない量でしたね。体も小さかったから…。私の酒豪は突然変異じゃないですか(笑い)。こんな業界に入ったせいもあるし、完全に後天的な酒豪ですね。

 話がそれましたが、もともと私は野球少年でした。でも中学に入ってすぐに親父が一度病気で倒れてしまい、親戚に預けられて通学時間が長くなっちゃったんです。それで中学に入ってすぐに野球は辞めました。小学6年生の時に長嶋茂雄さんが引退して、野球への熱が冷めていましたしね。

 野球熱と入れ替わるように、プロレスにのめり込んでいきました。当然「レスラーになろう」なんて気持ちはなかったし、なれるわけないとも思っていた。でも「猪木すげーなー、猪木かっこいいなー」という気持ちがすごくあった。そのころは金曜夜8時に新日本、土曜夜8時に全日本と毎週(地上波放送で)見られた。今と環境は違うし、ゴールデンタイムでやってるんだから、与える影響力も違う。スーパースターを作りやすいですよね。

 そういう状況だからむくむくとアントニオ猪木への憧れが膨らみ始めた。あのころはビル・ロビンソン、ストロング小林、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンと名勝負を連発していましたから。大木金太郎さんとの試合もよく覚えています。

 その後は異種格闘技戦ですよね。私が中学に入ったころから始まって2年生の時にモハメド・アリ戦(1976年)があった。異種格闘技戦はやっぱりスペシャル感があった。やけに多いセコンドがピリピリ感を醸し出していて、いつもと違う空気が画面から伝わってきた。今振り返ると「そこの伝え方がうまかったなあ」と思うんです。イベントの雰囲気というか「ヤバい感じ」が、テレビを通してちゃんと全国の人に伝わっていた。

 とはいえその時期はあくまでも見る側。レスラーになろうなんて思いもしなかった。そんな私がレスラーになることを決意した日。それは中学2年の冬だったと記憶しています。