【山本美憂もう一息!(5)】1987年10月、中学1年生で出場した女子レスリングの第1回全日本選手権(決勝は後楽園ホール)44キロ級で優勝しました。各階級の優勝者は、同年の第1回世界選手権(ノルウェー)に出場できます。しかし私は代表に選ばれませんでした。当時13歳。国際レスリング連盟(FILA)の規定で、大会が開催年の1月1日に17歳でなくてはいけないという年齢制限があったのです。

 規則であればどうすることもできません。その後、全日本で優勝しても2位の選手が世界選手権に出場する状況が90年まで続きました。

 初めての国際大会は15歳の時。米国で行われた「サンフランシスコ国際」に出場しました。楽しかったですね。父(郁榮氏)が団長だったので比較的自由でしたし、試合以外でも現地を楽しむことができました。初めて肌を合わせる海外勢の印象は、いわゆるロボットレスリング。首投げでバーンと相手を倒すような力技が多く、当時から日本のタックル技術は抜きんでていました。

 私も優勝することができました。私の攻撃スタイルを初めて見た海外のコーチは、タックルが低くて素早いということで「まるでネコみたいだ」と言い始めました。以降、海外では「ミユキャット」という愛称で呼ばれるようになります。

 この大会で気が付いたことがありました。世界選手権に出たことがある北欧の選手に「何歳?」と聞くと「16歳」と言うんです。当時はルールチェックもいい加減。年齢制限など気にせず内緒で世界選手権に出場していたのです。日本は本当に真面目でしたね。

 90年、男子フリーの世界選手権が東京で行われ、日本は91年に女子の世界選手権も招致しました。私も自国開催の大舞台に立ちたい。しかし8月4日生まれで同年の1月1日はまだ16歳。またも年齢制限に引っかかってしまいます。二度と巡ってこないかもしれないチャンスなのに…。そんな気持ちを知った福田富昭さんが動いてくれました。FILA女子委員会のメンバーだった福田さんは、連盟に特例で私の出場を認めるよう働きかけ、許可されました。

 こうなれば絶対に代表の座を逃すわけにはいきません。91年の全日本選手権47キロ級で優勝。大会5連覇を果たしました。世界で確実に成績を残すため“女子レスリング虎の穴”として後に有名になる新潟・十日町の「桜花レスリング道場」で上位選手による2度の選考試合も実施。私は晴れて初の世界選手権代表に決定しました。

 ☆やまもと・みゆう 1974年8月4日生まれ。神奈川県出身。72年ミュンヘン五輪代表の父・郁榮氏の影響で小2からレスリングを始める。87年に中1で女子初の全日本選手権を制覇(44キロ級)し、47キロ級も含め5連覇。同選手権では計8度の優勝を誇る。91年、年齢制限のある世界選手権に特例で出場し史上最年少の17歳で優勝。94、95年も世界を制した。2016年にMMAに転向し「RIZIN」で女子格闘技をけん引。3人の子を持つ母。156センチ。