わずか1回の来日で3か月の間に「力道山に挑戦状→ニセの正体申告→覆面剥奪」という慌ただしくも気の毒な扱いを受けたのが、1963年の第5回ワールドリーグ戦に参加したキラーXだ。

 63年3月23日蔵前国技館の開幕戦6人タッグ戦で力道山と対戦したXは、さっそく本紙を通じシングル戦を要求。力道山はシード扱いでリーグ戦には不参加だった。「凶暴な男だ。ムダな筋肉はなく動き、技など申し分ない。ショーマンシップもあり、一昨年のミスターXを再現したような男」と力道山の評価は高くテレビマッチにはほとんど出場させていた。

 Xは本紙に「今まで10人以上に重傷を負わせてきたが、リング上で殺しても罪にはならない。力道山とシングルを組むのはいつだ。早くしろ。万が一、俺が負けたらマスクを脱いでファンに姿をさらしてもいい」と“殺人予告”まで放った。

 結果、5月3日青森でのシングル戦が決まるのだが、4月7日付本紙では何と決戦前に自身の正体を一部暴露している。

「35年生まれ。ノースカロライナでフットボールをやっていた。父は有名なレスラーだ。俺の本名を知りたければトニー・クルスというレスラーを調べてみな。音楽と孤独が俺の友人さ」とハードボイルドに語っている。

 そして決戦。1本目はフライングボディープレスで先制。2本目は力道山が空手チョップから身をかわして場外に転落させてリングアウト勝ち。ここでXは後頭部を打ち、3本目のゴングが鳴っても立てず、レフェリーストップ負け。Xが肉薄するも力道山が辛勝。マスクをはいだ。

 試合後の本紙は「Xはカナダから米国北東部で暴れるフランク・タウンゼントで次期世界挑戦候補だった。歌手としても有名で英国BBCや地元テレビ曲にも出演している」と報じている。

 潔くマスクを脱いだXは「本当はニュージャージー州ハドンフィルドの生まれの28歳。プロレスラーになったのは8年前で、初舞台はニューヨークのMS・G。その後はホイッパー・ビリー・ワトソンとタッグを組んでいろいろ学んだ。英国人ではなく米国人だ」と明かした。

 つまり独白は全部ブラフだったわけだ。その後は素顔で戦い、リーグ戦は大きく負け越した。力道山が海外で活躍する選手を急造マスクマンに仕立て上げて人気者にした典型的な例だった。
 (敬称略)