【プロレス蔵出し写真館】上田馬之助と対峙した石川隆士(後に敬士)は、その場に立ち尽くした。

 場外乱闘になり石川がイスを手にすると、なんと上田は観客の子供を抱きかかえて石川と向かい合った。「人間の盾」にして身を守ろうとしたのだ。困ったような表情で、子供を引き離そうとしているのは、まだ若手だった三沢光晴。
 
 これは今から39年前の1982年(昭和57年)5月29日、全日本プロレスの北海道・岩見沢市スポーツセンターで行われた前座第6試合、タイガー・ジェット・シン&上田VS天龍源一郎&石川戦でのひとコマ。 

 いかにも地方巡業ならではの、どことなくほのぼのとした風景だった。

 さて、リングを下りた上田は飄々とした人で、朴訥(ぼくとつ)とした語り口が特徴だ。リングでの反則三昧のファイト、コワモテの外見とのギャップが受けて、漫才ブーム真っただ中、関西で人気漫才師だった「紳助・竜介」とゲストとして共演し、島田紳助にコブラツイストをサービス。関東では「オレたちひょうきん族」「風雲!たけし城」「たけしのお笑いサドンデス」など、数々のバラエティー番組に出演した。

 トライデント・シュガーレスガムのCMでは美保純、泉谷しげると共演。上田の棒読みのセリフがコミカルな演出とマッチして人気を呼んだ。
 
 83年にはなぎら健壱が作詞・作曲、コント赤信号が歌う応援歌「男は馬之助 上田馬之助に捧げる詩」のレコードまで発売された。負けるな負けるな馬之助 付いててもしょうがないけど、俺が付いている♪ こんなサビだった。

 80年代前半の上田は、リング外でもちょっとした人気者だったのだ。

 上田が最も光を放った試合といえば、なんといっても86年3月26日、東京体育館で行われた新日本対UWFの5対5イリミネーションマッチだろう。新日勢が手を焼いた前田日明のキックを平然と受けて見せた。そして、前田の左足をつかむと強引に場外に引きずり下ろし両者リングアウト。大将の前田を失格にして、館内のムードを最高潮に盛り上げた。

 元来、日本プロレス時代から上田の打たれ強さには定評があり、ナチュラルに頑丈な肉体だった。そして、セメントの強さで知る人ぞ知る存在だった。「私自身は知らないね。お客さんがそう思ってくれてるのか…。私自体は自分がセメントに強いって誰にも言ったことないし…」と本人は謙遜していたが…(晩年になってからは饒舌に語っていた)。

 新日軍の〝用心棒〟として適任だったのだ。

 ところで、昭和、平成の時代は酒の席で全裸になる人をたまに見かけたものだが、名古屋のあるスナックで、上田が全裸で行った宴会芸の写真がデカデカと東スポの紙面を飾ったことがあった。同席していた上田と懇意の写真部員が撮ったものだった。

 その新聞が発行されて数日経ったころ、後楽園ホールに取材に行くと、入口を入ってすぐのところに上田が立っていた。東スポが来るのを待ち構えていたようだ。そして、「なんだお前のとこは! こんな写真載せやがって!」。衆人環視の中で怒声を浴びた。烈火のごとく怒っていた。 

 撮ったのは先輩カメラマンで、GOサインを出したのは編集局長で…とてもそんな言い訳などできる雰囲気ではない。私は、あの時の石川隆士のように、その場に立ち尽くすしかなかった(敬称略)。