天龍革命の相棒「阿修羅原」は野坂昭如氏が命名していた

2015年02月22日 16時00分

原(中)のリングネーム「阿修羅」を発表する野坂氏。左は吉原社長

【お宝写真館】ミスタープロレス・天龍源一郎(65)が11月での引退を発表した。天龍の相棒といえば“龍原砲”として一時代を築いた阿修羅原(68)をおいて他にはいない。写真は国際プロレス時代の1978年12月27日に「阿修羅」のリングネーム(本名・原進)が発表された時の一枚だ。名付け親は作家の野坂昭如氏。吉原功国際プロレス社長も満面の笑みを見せており、日本初のラグビー世界選抜メンバー・原に寄せる期待も大きかった。

 

 ラグビーからプロレスに転向した例は同じ国際プロの元日本代表LO・グレート草津(新日鉄八幡)、新日プロでデビューした明大LO・KENSO(鈴木健三)らがいるものの、原は格が違った。長崎・諫早農高から東洋大を経て近鉄に進み6年間、日本代表として活躍。76年には日本人として初めて世界選抜メンバー(ウェールズ100年祭)に選ばれた。

 

 特筆すべきはポジション。スクラム最前列の左プロップという、職人技が要求される位置で世界レベルに達していたのである。鉄のような頑丈さにBK級の走力を兼ね備えなければならない。当時も今も日本人の体格では最も難しいポジションとされる。

 

 181センチ、95キロ(当時)の原は、鳴り物入りで77年11月にプロレス転向。入門当初から“ダンプガイ”“タフガイ”と呼ばれ、78年6月26日のデビュー戦はベテラン・寺西勇と15分引き分けという破格の扱いだった。その直後に海外武者修行に出て12月に帰国。勇壮なリングネームをもらうと79年5月にWWU世界ジュニア王者を奪取。傾きかけた国際プロ次代のエースに押し上げられた。

 

 結局、わずか2年後に国際プロは崩壊。原は全日本へ参戦し、紆余曲折の果てに天龍とタッグを結成する。当時では革命的だったゴツゴツとしたプロレスを展開して「天龍革命」と呼ばれる黄金時代を担った。その後は借金問題で88年11月に全日プロを解雇されるが、金銭感覚はさておき、原の人柄について悪く言う人間はあまりいない。

 

 最終的には2年のブランクを経て天龍が旗揚げしたWARで復帰。94年10月には故郷・長崎で天龍を相手に引退試合を行った。2001年5月のFMW川崎大会で天龍―冬木弘道戦のレフェリーを務めた時を最後にマット界とは関係を絶っている。それでも最後の「サンダーストーム」が鳴った瞬間、リングサイドにはやはり原の姿があってほしい――そう願うファンは多い。