日本プロレスの祖・力道山が1951年10月にプロレスラーとしてデビューしてから今年で70周年を迎える。3年後の2024年には生誕100年となる。メモリアルイヤーに際し、今年傘寿を迎えた夫人の田中敬子さん(80)がインタビューに応じ、偉大な夫との出会いを明かしつつ、力道山が見せた「2度の涙」について告白。前後編で戦後最大の英雄の素顔を明かした。

【力道山夫人・敬子さん独占インタビュー前編】

 ――初めての出会いは

 敬子さん 高校卒業後、日本航空のキャビンアテンダントになりまして、21歳の時(1962年)、警察署長だった父親が、親しかった大洋ホエールズ(現DeNA)の森徹さんのお母さんに私のカラー写真をお見合い写真として渡したのが契機です。でも森さんはもう婚約者がいらした。森さんは主人を慕っていたので「兄貴(力道山)が嫁さんを探している」という話になった。そうしたら森さんのお母さんが、すぐに主人の巡業先の北海道まで写真を持って行ったんです(笑い)。

 ――運命ですかね

 敬子さん 主人は「日本航空のスチュワーデスかあ」と言うと、さっそく会社に電話して「この人はどの便に乗るのか」とチェックしたようです。それでロスで仕事がある時、私の搭乗した便のファーストクラスの席で初めてお会いしました。「新米だからあいさつしてらっしゃい」と先輩に言われ「19期の田中敬子です。よろしくお願いします」とあいさつしました。

 ――反応は

 敬子さん お酒をたくさん飲まれていて「大丈夫ですか?」と言うと「僕は飛行機が怖いので飲んでいないといられないんです」と答えました。私は「そういう方はたくさんいらっしゃいますから大丈夫ですよ。どうぞごゆっくり」で会話は終わり。顔やスタイルをチェックしたかったんじゃないですか(笑い)。

 ――そこから急展開に

 敬子さん 親しかった雑誌記者の方を代理に自宅に3~4回、お食事の誘いがあり、断り続けていたら、広報室長から「同席するので広報活動と思って頼むよ」と言われて9月にお会いしました。その際、次のフライトでロスのグレート東郷さんに渡してほしいものがあるというので、3日後に初めて2人きりでホテルオークラで食事しました。

 ――初デートだ

 敬子さん グリーンのオープンベンツで新橋駅まで迎えに来てくれ、食事した後に横浜まで送ってくれました。「港の見える丘公園まで行っていいですか?」と言うと、車内で「日本人じゃないと横綱になれないんです」と話し始めた。(出自の問題について)私は全然気にしませんし、意味も分からなかったので「そうなんですか」とあっさり答えました。すると「結婚を考えてくれませんか」とプロポーズされたんです。

 ――即答はしなかった

 敬子さん はい。「お付き合い程度なら」とその後は何回かロスで食事したり…。誠実さと優しさに気持ちは傾いていきました。父は反対しましたが、国際結婚していた叔母が「結婚はギャンブル。サイコロを投げる価値のある人だからお受けしなさい」と背中を押してくれたので「絶対に結婚する!」と気持ちは固まっていました。

 ――そして12月28日に

 敬子さん 叔母と2人で主人の家に行きました。「君が受けてくれないなら僕は一生独身でいます」と言う。私が「お受けします」と答えると、主人は別の部屋に飛び込んでしばらく出てこなくなった。心配して見に行くと泣いているんです。そこで初めてハグしてキスしてくれました。とてもとても温かかったです。

 ――天下の力道山が泣く姿は想像できません

 敬子さん 外では涙もろい人だったみたいです。私の前でもう1回泣いたのは、婚約発表(63年1月7日)の後「俺が朝鮮人だって知ってた?」と打ち明けた時です。「あなたが朝鮮人なんて関係ないです。私は百田光浩という人間が好きで結婚するんですから。それがどうしたの?」と答えると、主人の目から涙があふれました。私も泣いちゃいましたけどね。 (敬称略)

 ☆りきどうざん 本名は百田光浩(ももた・みつひろ)。1924年11月14日、朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現・北朝鮮)出身。15歳で大相撲の二所ノ関部屋に入門し初土俵。最高位関脇で50年9月場所前に引退。51年にプロレスに転向。54年2月19日蔵前国技館で日本初の本格的プロレス大会を成功させた後に一大ブームを築き、国民的英雄となる。63年12月8日、暴漢に刺され7日後の15日に急逝。享年39。日本プロレスの祖。得意技は空手チョップ。

 ☆たなか・けいこ 1941年6月6日、神奈川県出身。県立平沼高校時代はテニスでインターハイ出場。卒業後の60年に日本航空に入社し国際線を担当。63年6月に力道山と結婚。夫が死去した後の64年3月に長女を出産。会社経営を経て現在は社会貢献活動、公演活動を行いながら東京・水道橋の「闘魂ショップ」に勤務する。