プロレスラーは頑丈でなくてはならない。動物や車にも負けてはいけない。東スポWeb「蔵出し写真館」(先月8日)では“韓国の猛虎”大木金太郎が、母国で800キロの牛に原爆頭突きを叩き込む豪快な特訓(1972年11月)を行う写真が掲載された。

 力道山は生前「プロレスなら馬場、レスリングなら猪木、ケンカなら大木」と語っており、体の頑丈さとケンカの強さには定評があった。

 しかし猛牛特訓から4年後の76年8月31日深夜、ソウル市内で乗っていた自家用車がタクシーと正面衝突する大事故に見舞われる。大木は顔面を30針縫う全治1か月の重傷(額、左まぶた上と右手裂傷、右足打撲)を負いながら九死に一生を得た。

 本紙はソウル市内で入院中の大木を国際電話で直撃し、9月4日付1面で報じている。大木は「お恥ずかしいというか情けない。だが8日からの試合には何としても出なければならない」と早くも不屈の闘志を燃やしている。9月8日からは韓国で、24日からは全日本プロレスへの参戦が決まっていたからだ。

 本紙は欠場もやむなしとしているが、大木はとんでもない行動に出る。何と5日に病院を強引に退院して8日昼夜に仁川とソウル、9日大邸、11日平澤と4試合に強行出場したのだ。韓国では英雄的存在だっただけに欠場は避けたかったのだろうが、事故から8日で試合とはもはや超人だ…。

 さらに17日付本紙では国際電話のインタビューに応じ「もうフラフラです。医者はカンカンで病院創設以来のムチャだと怒ってます。肉がとれた額の部分に右モモからはがした9センチの皮を移植したんですが、まだその部分が完全にくっついていない。8日の試合はリングの上で死んでもいいと思いましたが、人間強いもんです。自分は不死身ですよ」と大木は痛々しい包帯姿でケロリと語っている。

 ところがケガの容態を明かし終わると態度を一変させて「このシリーズ中、馬場と鶴田のインターナショナルタッグ王座に挑戦する。すでに馬場に挑戦状は送った。弟子のキム・ドク(タイガー戸口)も米国から呼び寄せた」と明かしたのだ。さらには「拒否するならシリーズをボイコットして、NWAとPWFに直談判する。自分にも意地がある。交通事故はまずかったが災い転じて福にすればいい。21日にドクと来日する!」と人が変わったように声を荒らげた。プロだ…。

 ケガで弱気になるどころか執念の鬼と化した大木は21日、何と全日プロの新道場開きをドクと襲撃。記念すべき式典をぶち壊して馬場を「売られたケンカは買う」と激怒させ、10月28日蔵前国技館のインタータッグ王座戦を承認させてしまった。交通事故からわずか1か月弱。すごい執念だ。

 そして決戦。大木は頭部に包帯を巻いたままリングイン。大流血戦の末、1対1から大木組のラフファイトに怒った馬場が大暴走の末、ジョー樋口レフェリーに暴行を働き反則負け。大木組が新王者になった。

 男を上げた大木は歓喜の表情で「キム・ドクの大健闘のおかげだ。このベルトは絶対に馬場の手には戻さない」と豪語した。両軍はこの後、同王座をめぐって抗争を展開して約3年間、全日プロの看板カードとなった。

 大木は豪快なエピソードが多く、63年11月22日にケネディ大統領が暗殺されて全米中が騒然とした日は米国修行中で、本紙の緊急国際電話にも「私は昨日まで26試合をやって25勝1分けです」と現地の情勢よりプロレスの話題に終始。64年10月に“鉄人”ルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑んだ時は試合中に「ケンカ」を仕掛け、顔面を31針縫う重傷を負った。“韓国の猛虎”のプロレス人生はまさに型破りそのものだった。(敬称略)