ブッチャーの魚拓ならぬ“血拓”求めてファン殺到! “黒い呪術師”は子供にもやさしかった

2021年08月01日 10時00分

血拓を取ろうとブッチャーの額にパンフレットを押しつけるファン

【プロレス蔵出し写真館】〝黒い呪術師〟アブドーラ・ザ・ブッチャーは、昭和から平成にかけプロレスに興味のない人にもプロレスラーとして認知された、最もポピュラーな外国人レスラーだろう。ブッチャーが初来日したのは、今から50年も前、昭和45年(1970年)のことだ。

 写真は試合を終え、花道を引き揚げるブッチャー。ファンがわっと、ブッチャーに駆け寄り背中をさわる、写真を撮る。そして、なぜか正面からパンフレットを差し出す人も…。

 これは、一時期、一部のファンの間で〝愉快犯〟的に流行った魚拓ならぬ〝血拓〟取りの場面。ブッチャーの流血した額にパンフレットや色紙を押し当て、その血と傷痕を押し取る。つまり鮮血の傷の拓本が〝血拓〟だ。

 その行為がいつごろから始まったのかは定かではないが、80年代初めからだったように思う。

 ブッチャーは70年8月21日に開幕した日本プロレスの「サマー・ビッグ・シリーズ」に初来日したのだが、アフリカのスーダン出身というふれ込み、そして、見た目の風貌も相まってキワモノ扱いだった。しかし、開幕戦でジャイアント馬場と互角の試合を演じ評価が一変した。当初、外国人レスラーのエースと目されていたもののパッとしなかったカール・ハイジンガーに取って代わり、馬場のインターナショナル王座に挑戦した。

 馬場とはその後も、翌71年の「第13回ワールド・リーグ戦」で同点決勝を争うなど、好勝負を展開し、馬場が全日本プロレスを設立してからも継続する。これは後に、馬場から協力を求められ全日本参戦を決意したとブッチャーが明かしている。

 全日本でのブッチャーは、日本側の助っ人についたザ・デストロイヤーとの抗争で、らしさを発揮。大木金太郎と頭突き合戦、ハーリー・レイスとは路上で乱闘(東京・日大講堂)など話題には事欠かなかった。

 そして、最もファンにインパクトを与えたのは、77年12月15日、ザ・シークと組んだ「世界オープンタッグ選手権」で、優勝を争ったドリー&テリーのザ・ファンクスとの試合だろう。ブッチャーはテリーの右腕にフォークを突き刺し、流血したテリーが泣き叫ぶという衝撃的な光景が展開された。
 
 さて、ヒールとはいえブッチャーは、タイガー・ジェット・シンとは違いリング内外でファンに手を出すことはなかった。サインを求めてきたファンには必ず対応していた。
 
 79年にブッチャーをモデルにした漫画「愛しのボッチャー」が週刊少年マガジンで連載されたり、サントリーレモンのCMにも起用されると人気が急沸した。81年には東映映画の「吼えろ鉄拳」で真田広之とも共演している。

 ブッチャーの試合では、自らも含め必ず流血戦が行われた。一度、毎回血を流してどうやって治療しているのか聞いたことがある。ブッチャーは「生卵の薄皮を貼る」と答えた(毎回そうしていたのかは不明)。

 さて、後年は対戦相手から流血が原因で「C型肝炎」をうつされたと提訴されたブッチャー。

 現在では流血戦もあまり見ることもなくなった。引退したブッチャーは、時代とともに終焉を迎えたといえるだろう(敬称略)。

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