【長与千種連載10】ジャパンとの対抗戦できず、飛鳥に敗れて引退決意

2014年12月23日 12時00分

セーラーズの衣装を着て笑顔で歌う長与(右)。アイドルとしての人気も爆発したが、飛鳥(左)の表情は曇り始めていた
長与千種 レジェンドの告白(10)

 飛鳥との関係に少しずつヒビが入っていたのは、分かっていた。人気のバランスが崩れ、私のウエートが重くなってしまったからだ。この時期には正直、話すこともなくなっていた。飛鳥なりに悩み抜いて、考え抜いて答えを出した結果、芸能活動を停止するという。1986年5月、クラッシュは活動を一時停止した。確かにコンビとして達成することは、やり尽くしてしまっていた。

 最近、テレビの企画で約10年ぶりに飛鳥と会った。その時を振り返って飛鳥は「恨んでいた。劣等感があった」と初めて明かしてくれた。私は「ごめんね」と言うしかなかった。「ありがとう」とも。お互いにこの時のことをいまだに引きずっていた。でもあの時、私は飛鳥じゃなければダメだった。まあ飛鳥の女房みたいなものだったなのかなと。

 それでもリング上での歓声は続いた。シビアな会社は続きを考える。松永一家の国松さん(四男)の口から「もうタマがない」という言葉が出た。つまりクラッシュ対極悪同盟に続く目玉のカードがないというわけだ。

 となるとクラッシュ対決、あるいはそれぞれがシングル王座に向かうしかない。87年1月の後楽園大会で8か月ぶりの復活を果たすと、2月の川崎市体育館で飛鳥と一騎打ち。60分フルタイムドローとなり、延長戦でも判定でも決着はつかなかった。私は飛鳥に最後まで勝ち越せなかったと思っていたけど、先日会った時に「違うよ。完全にイーブンだよ」と言われて驚いた。2人の星取りはまったくの五分だった。今、振り返って気が付くことって本当に多いですよ(笑い)。

 私がWWWA世界女子のシングルを巻けなかったのは、コンビの時期が長かったから。初戴冠は87年10月29日の大田区体育館大会まで待たなければならなかった(王者は大森ゆかり)。この試合後、神取忍(当時しのぶ。ジャパン女子=86年8月に旗揚げ。元全女のジャッキー佐藤がエース。元女子柔道王者の神取がプロ入り)が会場に現れ、挑戦を表明してきた。当時の女子プロでは画期的な大事件だった。

 私は常に自分で自分の道を切り開いてきたつもりだった。「これは面白い」と直感で分かった。当時は全女の天下。そこに新しくできた団体のトップがかみ付いてきた。しかも元女子柔道日本王者だ。向こうにはジャッキー(佐藤)さんもいる。対抗戦をやれば絶対盛り上がる。私は神取との対戦を会社に直訴した。

 答えは冷ややかで単純明快だった。「戦ってウチに何のメリットがあるんだ?」。要するに戦う意味がないと。私は単に神取と戦いたいわけじゃなかった。この時すでに、デビル雅美さんとダンプ松本が引退を表明していた。団体は衰弱する。今こそ対抗戦が必要だと確信したからだった。

 当時、ポスト・クラッシュとされていたのはJBエンジェルス(山崎五紀、立野記代組)。2人ともアスリートとして才能は抜け出ていたが、対戦相手がいなくて伸び悩んでいた。今、対抗戦をやれば、間違いなく彼女たちはブレークする。若い世代でもジャパンの選手と戦えば、きっといい試合になる。下積みが長かったからこそ、そこまで考えられたと思う。


 今思えば「メリットがない」と判断を下した会社の姿勢はよく分かります。放映権や興行権の問題、ギャラや収入の配当分量、グッズ売り上げなどの細かい問題…諸問題はあったけど、あそこで対抗戦をやるべきだった。結果的には全女の東京ドーム大会(94年11月、全女主催の史上初の東京ドーム大会。全面対抗戦で4万2500人を動員)より7年早かったことになるんだけど(笑い)。

 対抗戦はできない。急速にプロレスに対する熱が冷めていった。89年1月29日、飛鳥とのWWWA王座決定戦に敗れた後、私は引退を決意する。