【長与千種連載6】デビュー戦に負け泣く私に「そんな涙はいらない」

2014年12月16日 12時00分

デビュー2年目のころの長与。不完全燃焼の日々が続いた
長与千種 レジェンドの告白(6)

 プロテストに合格した私は巡業に帯同する。同じ日には大森さんやダンプも合格していた。この年の全女は2リーグ制を導入。ふたつのチームで全国各地を回った。Aチームはジャッキー佐藤さんやミミ萩原さんがいてテレビ中継があった。私はまあ二軍っぽいBチームに入れられ、いきなり50日間の沖縄・九州巡業が始まった。

 プロテストに合格した日はそのままセコンドに就けと命じられたが、先輩レスラーに「邪魔だ、どけ!」と蹴られて頭から血が出た。血が出たけどどうしていいか分からないから、白いTシャツで頭を拭きながらセコンドを続けた。何も教えられないまま、いきなりプロレスラーの生活に飛び込んだ。

 巡業でも休む間なんてない。朝6時に起きて朝練を1時間半ほどやってから、先輩たちの食事の用意とバスへの荷物運び。会場に着いたらリング作りと売店の設置が待っている。当時の全女は「新人は、給料なくて当たり前。人より働いて当たり前」という教えだった。代わりなんていくらでもいると。今なら大問題でしょうけどね(笑い)。

 そうしているうちにデビュー戦が決まった。8月8日、田園コロシアム。相手は大森さん。ビューティ・ペアは引退してブームは下火になっていたけど、この日はミミ萩原さんの新曲発表とトミー青山さん(77年9月デビュー。ルーシー加山との「クイーン・エンジェルス」で活躍。故人)の引退試合が行われるビッグマッチだった。デビュー戦は全然覚えていない。14分ぐらいで負けちゃったんだけど、内容なんて一切記憶にない。頭は真っ白だった。唯一覚えているのは、悔しくて泣いて見上げた場内のライトですよ。涙でにじんだテレビ放送用のきらびやかなライトだけが脳裏に刻まれている。

 そうして泣きながら引き揚げると、引退試合を控えていたトミーさんに怒られた。「これぐらいで泣くんじゃない。これから本当に泣かなくちゃいけない時が来る。そんな涙はいらないよ」と。ハッとしましたね。最後は会場最上段の売店から、トミーさんの引退試合を見ていました。トミーさんは先輩レスラーのなかでも異色の存在だった。中京大学出身で、よく本を読まれていた。ひざをケガして休んでいたのでよく道場で練習を見てもらった。「ここにいると他の世界が分からなくなる。本を読みなさい」とも教えられて、何冊ものハードカバーをいただいた。私が本をよく読むようになったのは、トミーさんのおかげですよ。

 デビュー戦を終えたものの、その後、私は試合を組んでもらえなかった。選手が多過ぎたからだ。1981年になるとリーグ制が廃止され、A、Bチームがひとつに統一される。要するに選手は倍になり、私はなおさら試合を組まれなくなる。200大会以上はあったのに、私はたった8試合。当然収入はなくなる。「いやなら辞めていいよ」程度の存在だった。

 その年の春には寮を出て目黒に四畳半の家賃2万円のアパートを借りたものの、家賃滞納で2度追い出された。救ってくれたのは当時トップだったデビル雅美さん。「みっともないからこれで家賃を払ってうちに来なさい」とお金を渡してくれた。デビルさんは3LDKのマンションに住んで、部屋が余っていた。私はビデオ付きのテレビやエアコンを見て「スゲーなあ」と。その時期で1000万~1500万円の収入はあったんじゃないですかね。

 そうして3年目も不完全燃焼の日々を続けていた私の前に、レスラー人生を変える存在が現れる。ライオネス飛鳥だ。