プロレスラーは絶対にケンカが強くなければならない。素人にナメられたら終わり――力道山の時代から続く鉄則中の鉄則である。最近は格闘技イベント「RIZIN.」で“路上の伝説”こと朝倉未来が爆発的な人気を集めているが、昔のプロレスラーは伝説が服を着て歩いているようなものだった。

 往年の名レスラーで最もケンカが強かったのは誰か。この話になると必ず名前が挙がるのが、1960年代に一世を風靡した“生傷男”ディック・ザ・ブルーザーである。

 見るからに頑丈でゴツいヤンキー(注・本来の意味で)の典型で、試合は殴る蹴るのラフファイトオンリー。豪快なエピソードも多い。大学フットボールで有望視されながらも素行不良により7校を退学処分。NFLでもラフプレーが過ぎて即解雇に。プロレス入り後も会場で観客や警官と大ゲンカ…常識外れのラフファイトが原因で57年には当時のWWWF(現WWE)からMS・G出場禁止処分を受けた。ただし素顔は人種差別を憎む紳士だったようだ。

 ジャイアント馬場とは何度も激闘を展開したが「ブルーザーと聞くだけで背筋がピンとした。あの男は本当にすごかった」と生前に語っていた。209センチの大きな体にもトラウマが残っていたようで、後にブルーザー・ブロディの初来日が決まった時は「なにっ、ブルーザーだって?」と一瞬、身構えたという。

 そんな“伝説の男”が初来日したのは65年11月23日。当然、日本中が大騒ぎとなった。

 来日当日の本紙1面でも「180センチを誇る大胸筋、腕の太さは64センチで洋服の上からでもプリプリとしている。体の傷はいくつかと聞くと『1試合で100もついたことがある。200か300はあるだろう』と不敵な答えが返ってきた。額には新しいものから古いものまで20、30は傷痕が走っていた」とかなり劇画チックに報じている。

 本紙は来日2週間前から「馬場を襲う生傷男~世界一の無法者を解剖する」というとんでもないタイトルの連載を開始している。情報が圧倒的に少なかった時代、ブルーザーのようなキャラクターを持つ選手は最高の“素材”だったのだ。

 ブルーザーは力道山の没後、空位となっていたインターナショナルヘビー級王座決定戦(同年11月24日、大阪府立体育会館)を馬場と争うために来日。インタビューでは「得意技はパンチ、キック、かきむしり、かみつき、そのほかあらゆるラフプレーだ。プロフットボールで暴れすぎて追放されたが、俺のラフさを生かすのはプロレス以外にない。だからこの道に入った。ワイフ? 5回結婚したが今はいない。趣味はビールと女だ」と、とても32歳とは思えない豪快な応対に徹している。プロ中のプロだ…。

 3本勝負の決定戦は馬場がいずれも反則勝ちの2―0で新王者となったが、内容は得意のアトミック・ボムズ・アウェー(原爆落とし=ダイビングフットスタンプ)や徹底したラフファイトで、生傷男が圧倒した感が強かった。同27日蔵前国技館のリマッチも馬場は辛勝している。

 69年8月11日札幌では“粉砕者”の異名を取ったケンカ屋、クラッシャー・リソワスキーとのタッグで馬場、アントニオ猪木組のBI砲を破り、インターナショナルタッグ王座を獲得。日本のファンに衝撃を与えた。その後は全日本、国際などにも参戦した。

 今でもブルーザーを最強外国人に推すオールドファンは多いが、来日回数はわずか7回のみだった。いかに“生傷男”のインパクトが強烈だったかが分かる。80年代に“不沈艦”スタン・ハンセンが登場した際、同様のインパクトを感じた人も多いのではないか。永遠に語り継がれる名悪党である。(敬称略)