【長与千種連載4】レスラーになる夢を応援してくれた恩師に感謝

2014年12月11日 12時00分

レスラーを目指すと体はどんどん大きくなった。文化祭で学ランを着ておどける長与(右)。当然、女子にもモテた
長与千種 レジェンドの告白(4)

 確かに幼いころは医者になりたいという夢もあった。でもそれがとてもお金が必要だということも、もう分かる時期になっていた。大学の付属高から空手で推薦入学の話もあったけど、妥協で進学しても、ずるずると日々を過ごすだけだろう。何よりこれ以上、父母にお金の面倒はかけられない。私は働くしかなかった。

 そんな時、月刊「平凡」で「女子プロレスラー募集・月収10万円」という広告を見た(注・そんな事実はなかった)。10万円なんてお金、実際に見たこともない。小6の時、長崎市体育館で見たビューティ・ペアを思い出した。パンタロンをはいて歌を歌った後、リング上で戦う、とてもきらびやかな世界だ。確かにあこがれの目で眺めていた時期もあった。

 それでいてお金が稼げるのか。だったら私、プロレスラーになるしかない。今思えばかなり唐突な話だが、そう心に決めた。進学の三者面談で父が一時帰ってきた時も「プロレスラーになる」と告げた。父は「だったらボートレーサーにならないか?」と言ったけど心は決まっていた。今、思い起こせば幼いころから目の前で船のエンジン音を聞かせられたりしたので、将来レーサーにしようとしてたんでしょうね(笑い)。

 私の中学(大村市立玖島中学校)で就職の道を選んだのは、私が初めてだったと聞く。それでも担任の先生は「15歳の女の子が自立して何かをやろうとしているんです。お願いします」と校長先生に掛け合って応援してくれた。本当の恩師ですよ。今でも感謝しかないですよ。

 プロレスラーになると決めたからには体をつくるしかない。ソフトボールと空手は続けていたからあとは食べるだけ。お弁当のほかにも、購買部で残ったパンを取っておいてもらったりして、必死に体重を増やした。身長が160センチを超えたころ体重も70キロになっていた。

 だけど田舎に住んでいると情報が伝わるのが遅い。間が悪いことに、その年(翌1980年入門組)の公式オーディションはもう終了してしまっていた。それでも空手の関係者を通じて、熊本のプロモーターに履歴書を送ると、意外なほどカンタンに「OK」が出た。その前年にビューティ・ペアが解散して女子プロレスは下火になっていたので、人手が欲しかったのだろうか。別枠でテストを受けることができて、私は「自宅待機」となった。

 学校はもう受験勉強の時期に入っていた。私はお小遣いをためてクラスの人数分=40本の鉛筆を買って皆に贈り、大村市内の神社で合格祈願のお参りを続けた。プロレスラーになるという途方もない夢を後押ししてくれた担任の先生やクラスの皆に対する、せめてもの恩返しのつもりだったんです。

 やがて合格の通知が来た。私は1980年4月10日、上京する。長崎空港には40人以上の友人が見送りにきてくれて、ちょっとした騒ぎになった。東京での生活なんて想像もつかない。

 しかし目黒区の全日本女子プロレス道場の屋上で待っていたのは、焼け跡に建ったような、トタン屋根のバラックの合宿所だった。