向かい合わせで電車の座席に座るラッシャー木村と鶴見五郎。

 これは今から33年前の昭和63年(1988年)3月29日、新潟・長岡市からこの日の試合地、新潟・三条市へ向かう風景。そこはかとなく哀愁が漂うひとコマではないだろうか?

 なぜ2人は、団体の巡業バスではなく電車で移動していたのか…。

 全日本プロレスに「国際血盟軍」として参戦していた木村と鶴見は、外国人選手の巡業バスに乗って移動していたのだが、このシリーズは入れ替わりを含め10人(スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ、トミー・リッチ、オースチン・アイドル、ビッグ・ブバ、トム・マギー、ジョージ・スコーラン)の外国人レスラーが参加していて、最多9人が出場した試合もあった。

 そのためバスに乗り切れず、2人が割を食いバスから追い出され、数日間、電車移動を強いられたのだった。

 さて、木村はこの年の8月29日、日本武道館でジャイアント馬場とのシングル対決に敗れて「アニキと呼ばせてくれ」とマイクで発言。馬場と〝義兄弟コンビ〟を結成し、国際血盟軍は有名無実となった。

 それでも、鶴見を気にかけていた木村は、この年の最終戦、12月16日の武道館大会で「鶴見も仲間に入れてくれよ」と馬場にマイクで直訴した。

 翌89年4月4日の横浜大会で馬場、百田光雄とタッグを組んだ木村は「ファミリー軍団」の結成を宣言して、鶴見の軍団入りを進言した。

 しかし、鶴見もやきもきしていた〝義兄弟〟入りは、結局、この年の10月下旬「これ以上、兄弟を増やす必要はないだろう」馬場の一言で却下となった。木村の直訴は実らなかった。

 ところで、全日本&ノアでマイクパフォーマンスが人気だった木村も、国際プロレスが81年8月に活動停止となり、アニマル浜口、寺西勇とともに「はぐれ国際軍団」と呼ばれヒールとして新日本プロレスに参戦していたころは、そうではなかった。
  
 同年10月8日、蔵前国技館で行われたアントニオ猪木との初シングルマッチは、猪木が腕ひしぎ逆十字を決めたままロープブレークを無視したため反則負けとなり、すっきりしない決着にファンは消化不良となった。

 もっともファンの怒りを買ったのは、翌82年9月21日、大阪で行われたヘア・ベンド・マッチ(敗者髪切り)ではないだろうか。

 場外乱闘のさなか、木村が猪木を場外フェンスに逆さづりにすると、セコンドの浜口がストロング小林から手渡されたハサミで猪木の髪の毛を切るという暴挙を働いた。試合は猪木が延髄斬りでフォール勝ちし、木村は負けたにもかかわらず脱兎のごとく逃走して髪を切るのを拒否した。

 そのため、新間寿営業本部長が責任を取って坊主頭を願い出るという事態を引き起こした。

 その後、猪木の「3人まとめて来い」発言で、蔵前で前代未聞の1対3の変則タッグマッチが実現。3人目の木村がリングアウト勝ち。翌83年の再戦では猪木が3人目の浜口に反則負け。いずれも猪木が敗れた。

 この当時、金曜8時から放送された生中継のテレビ視聴率はタイガーマスクブームもあり、常に20%を超えていた時代。国際軍団、特に木村は猪木ファンからの憎悪を一身に浴びたと言っても過言ではない。
 
 ファンの行き過ぎた行動を木村本人からも聞いたことがあった。

 この年の2月28日、静岡・南伊豆の雲見で合宿を行ったはぐれ軍を取材。この地は国際時代から定期的に合宿をしていて、宿泊先の民宿「忠右衛門」のご家族とはじっこんの仲だ。練習が終わり夕食で一杯やっていると、ほどよく酔いのまわった木村がポツポツと語り始めた。

「犬の散歩をしていると全然知らない人に罵倒されるんですよ。悪いことするな!って。家に石まで投げられたり…」。そして「ホントはこんなことしたくないんですよ。(国際がなくなって)プロレスも辞めようと思ったけど、私がやらないと浜口も寺西も困るから…」。

 ファンから憎まれていた木村だが、間違いなくレスラー木村としては輝いていたのではないだろうか? 我々もわくわくしながら取材、興奮させてもらった。
 
 5月24日は、そんな木村の11回目の命日だった(敬称略)。