【米国でトップに上り詰めた名レスラー(3)】1970年代には新日本と全日本が旗揚げ。全日はNWAとのパイプを強め、新日はNWF王座を看板にしながら、アントニオ猪木が異種格闘技戦に乗り出すなど独自路線を進む。70年代末から80年代にかけてはWWWF(現WWE)との提携が強化され、猪木も積極的に米国へ遠征したが、衝撃的だったのは藤波辰巳(現辰爾)がMS・GでWWWFジュニアヘビー級王座を奪った試合だ(78年1月23日)。67年1月の国際プロレス旗揚げシリーズにはNWA世界ジュニアヘビー級王者のダニー・ホッジが参戦して話題を呼んだものの、ジュニアヘビー級は、日本では未開拓のジャンルだった。しかし藤波の台頭によって時代は大きく動いた。

 王者はカルロス・エストラーダ。3日前に王座を奪取したばかりの新鋭だ。対する藤波は24歳。72年の新日本旗揚げから西ドイツ、メキシコ、米国と転戦を続けており、これが初のMS・G登場だった。

 当時の本紙では「大きく体を揺さぶった藤波はフルネルソンの姿勢のままグイと腰を落として大きくブリッジ。エストラーダの両肩がキャンバスにめり込んだ。スープレックスだ」と報じている。一時代を築いたドラゴン・スープレックス米国初公開の瞬間だ。この快挙を報じた本紙1面では「大技 飛竜固め」「MS・Gにスター誕生」の見出しが躍り「メキシコで覚えた技。レイ・メンドーサ、エル・ソリタリオ戦で成功しているから成功すると思った」という藤波の談話が掲載されている。

 藤波はこの年の3月に凱旋帰国して「ドラゴンブーム」を巻き起こし、その後ヘビー級に転向する。81年4月に初代タイガーマスクが衝撃的な登場を果たして新時代を築くが、日本のジュニア開拓者は間違いなく藤波だった。

 また74年には、前年3月に猪木との日本人頂上対決に敗れたストロング小林が単身渡米。WWWFマットでトップの座に入る。9月にはWWWF王者のサンマルチノに挑み、10月7日にはMS・Gで大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントと激突するなどの大活躍を見せた。(日付はすべて現地時間)