リングで大の字になったまま動かないスタン・ハンセン。プロレスファンにはあまりにも有名な「ハンセン失神事件」だ。
 
 今から33年前の昭和63年(1988年)3月5日、秋田市立体育館でその事件は起こった。テリー・ゴディと組み、天龍源一郎&阿修羅原の「龍原砲」と対戦したハンセンは、龍原砲のサンドイッチラリアートからのサンドイッチ延髄斬りを食らいダウン。蹴った天龍が右足の甲を押さえて痛がるほど、強烈な蹴りがハンセンの左顔面にさく裂したのだ。

 意識が飛んだハンセンは、寝たままの状態で動かなくなってしまった。原のストンピングにも反応はなく、フォールにいくとそれはゴディがカット。ハンセンの異変に気づいたゴディは原、天龍を場外へ放り、天龍と乱闘を展開した。

 1分近く失神していたハンセンは、覚醒すると怒髪天の形相で場外にいた天龍に向かい、リング内からダイブした。巨体のハンセンがなんとトペスイシーダばりに飛びついた。

 その後は、殴る蹴る、イスを叩きつける。大振りの平手で天龍の顔面をフルスイングするなど、錯乱状態で誰も手を付けられない状況に陥った。まさに〝ブレーキの壊れたダンプカー〟だった。さんざん天龍を痛めつけると、テレビ解説席の本紙・山田隆記者にまで八つ当たり。返す刀でゲスト解説のジャイアント馬場の胸元にもチョップ一発を見舞って引き揚げた。

 ハンセンは、控室に引き揚げた後も怒りが収まらなかったようで、天龍がいる控室を探しまわった。

 天龍の控室に飛び込んできた和田京平レフェリーが天龍、そして取材していた報道陣に「ハンセンがあちこち探し回っているから、早く会場から出た方がいいです」と伝えてくれた。天龍と原は裏口から、マスコミの中には窓から外に出た者もいたほど、皆ほうほうのていでその場を離れたのだった。

 ハンセンは翌6日、青森・三沢大会ではメインに出場したのだが、セミの試合に出場する天龍を試合前に襲撃するという暴挙も働いた。

 そんな背景もあり、9日に横浜文化体育館で行われたPWF王者・ハンセンとUN王者・天龍とのダブルタイトル戦は、非情にごつごつとした武骨な試合となった。ハンセンのニースタンプ、エルボードロップはエグかった。まさに潰しにかかるという表現がしっくり。

 試合は天龍が首固めで勝利し2冠王になったのだが、試合後のハンセンの行為に切れた天龍はハンセンの控室を襲った。原とゴディに止められたものの、控室から通路に出て来てまでやり合っていた。

 その後のシリーズでも同様に、ハンセンは天龍の試合に乱入し、天龍を入場時に襲うという行為を繰り返す。それは、7月27日に長野市民体育館で天龍を破りPWF&UNヘビー級2冠を奪取する前日まで続いた。

 天龍は試合後、長野市内の急病センターに直行して15針を縫った。それでも、胸中はわからないが、病院を後にする天龍の表情が晴れやかで、笑顔を見せてくれたのは意外だった。

 本紙で連載中の「龍魂激論」でホスト役の天龍は前田日明との対談で、ハンセンがずいぶん経ってから「実はPass Out(気絶)した」と認めたと語っていた。ハンセンの新日本、全日本プロレスでトップを張った外国人レスラーとしてのプライドをみた思いだった。
 
 さて、長年のレスラー生活の代償も大きく、今ではハンセンの両ひざ、両肩が人工関節。天龍は先日、うっ血性心不全で入院していたが退院して関係者、ファンを一安心させてくれた。まだまだ二人には老け込まず、元気でいてほしい(敬称略)。