【お宝写真館】写真は1968(昭和43)年8月20日、長野県北佐久郡軽井沢町のレークニュータウンに完成した日本プロレスの「練成山荘(道場兼合宿所)」をバックに、開所式に訪れた主力選手たち。

 開所式は午後1時から行われ、夜から同県・小諸市営球場で試合を控える(写真右から)ジャイアント馬場、吉村道明、大木金太郎(当時はキム・イル)、アントニオ猪木、日本プロレス協会の平井義一会長、コーチを務めていたカール・ゴッチ、1人おいてユセフ・トルコレフェリーらが出席した。

 この時期の日プロは馬場&猪木の両エース路線で往時の人気を取り戻し、翌年からは日本テレビとNET(現テレビ朝日)の2局でテレビ中継がスタートするなど第2次黄金時代の到来を控え“バブル初期”にあった。

 当時、大企業などの別荘地として開発が進みつつあったレークニュータウンに1500坪もの土地を買い、総工費2000万円をかけて、合宿地として練成山荘を建設。9月からは早速、ゴッチ教室がスタートし、逃げ場も遊び場も少ない同地で若手選手が鍛えられることになった。

 同じ68年、この日プロ練成山荘の3軒隣には河合楽器が「軽井沢保養所浅間山荘」を建設。この山荘が4年後の72年2月、全国を震撼させ、警察官2人、民間人1人の死者を出し昭和史に残る「あさま山荘事件」の舞台となる。

 事件時、電話回線が設置された日プロ練成山荘は報道陣の連絡基地として機能することに。事件が収束した2月28日、日プロ勢は千葉・船橋ヘルスセンターで興行中。馬場や大木らが会場事務所のテレビにクギ付けになる中、試合開始10分前に人質救出、犯人5人逮捕のニュースが流れると、底冷えのする場内に日プロ関係者が「人質は救出され、犯人5人も捕まりました」とアナウンスしたという。

 1週間後の3月6日、すでに日プロを離脱していた猪木は新日本プロレス旗揚げ戦(東京・大田区体育館)でゴッチと一騎打ち。裁くレフェリーはトルコだった。この練成山荘開所式の写真には、日プロのつかの間の栄華と平和が凝縮されている。