街角にたたずむアントニオ猪木と黒スーツにサングラスの黒服。ぽっちゃり顔でこの体型はSP風・橋本真也だ。これは今から32年前の1988年6月28日、米テネシー州メンフィスでの写真。

 猪木はこの年、4月22日に沖縄・那覇市奥武山体育館の控え室で藤波辰巳(現・辰爾)からビッグバン・ベイダー戦を直訴された(後に飛龍革命と呼ばれる問答)翌日、左足甲の骨折が判明して試合を欠場。その後、右ヒジと左目のメンテナンス手術も行って長期休養に入った。
 
 そして6月16日からアメリカ外遊に出発するのだが、新日本プロレスに思うところがあったのか、猪木は出発前「俺はアメリカで橋本、蝶野(正洋)、武藤(敬司)に会う。3人を鍛え上げて〝闘魂三銃士〟をつくり上げて長州(力)、藤波にひと泡ふかせてやろうか」と語り、機上の人となった。

〝闘魂三銃士〟という言葉は、この時猪木の口から発せられたものだった。 

 猪木のロサンゼルス到着を出迎えたのは三銃士では橋本だけ。橋本は猪木のトレーニングパートナーとしてラスベガス、ニューヨーク、メンフィスと行動を共にし、ボディガード役でもあった。

 さて、三銃士の中で橋本は最後の3番手で87年10月、カナダ・カルガリーへの海外初遠征が決定した。現地で着用するコスチュームの宣材用写真撮影に臨む橋本は本当にうれしそうだった。マスクマン姿、UWF風のレガース着用、そして後に定着する黒のパンタロン。様々なバリエーションを試していた。

 結局、現地でハシフ・カーンというリングネームが決まり、リングコスチュームはロングタイツにレガース風シューズというスタイルになった。

 橋本は88年2月にカルガリーで行われた冬季五輪のスピードスケート1500メートルで銅メダルを獲得した黒岩彰にゲキを飛ばされた。帰国する黒岩を見送った際に声をかけられた「君も頑張れ」のひと言が何よりの励みになったと語っていた。と言うのも、橋本のキック主体のファイトスタイルはカルガリーでは受け入れてもらえなかった。ファンに対する粗相も影響してプロモーターのスチュ・ハートから干されてしまっていた。 
 橋本のスタイルが生きるのはやはり日本だった。7月29日、有明コロシアムで行われた闘魂三銃士が初タッグを組み藤波、木村健吾(後の健悟)、越中詩郎組と行った試合で存在感を発揮する。

 そして、橋本人気が急上昇したのは翌年4月24日、新日本が初めて東京ドームで興行を開催した「’89格闘衛星☆闘強導夢」大会。

 藤波が返上したIWGPヘビー級王座決定トーナメントと闘強導夢杯と銘打たれたトーナメント1回戦で長州をエビ固めで破る大どんでん返し。2回戦ではソ連(当時)のビクトル・ザンギエフを破り決勝へ進出。決勝ではビッグバン・ベイダーに敗れたものの、体力負けしない真っ向勝負は迫力十分で、敗れはしたが橋本人気が爆発した。

 翌90年は2月10日の東京ドームで蝶野と組み猪木、坂口征二組と対戦。テレビ朝日のインタビューに答え橋本が「時は来た!…それだけだ」の答えに蝶野が口を手で隠し笑いをかみ殺すというシーンは有名になったが、試合は政治家に転向してセミリタイア状態だったとはいえ、猪木が逃げ惑うほど非情なローキック攻撃。ボコボコにされ、鼻血を流した猪木にインタビューで「強くなりました」と言わしめた。

 2年弱前、憧れの猪木のボディガードを務めることに、悦に入っていた男の(師匠を超えるという)恩返しだった(敬称略)。