【G馬場追善興行】「馬場VSハンセン」レジェンドたちが語る凄み

2021年02月05日 11時30分

【写真左】馬場さんのリングシューズを囲み10カウントゴングが鳴らされた【写真右】ハンセン(左)に32文ドロップキックを放つ馬場さん(1982年2月4日)
【写真左】馬場さんのリングシューズを囲み10カウントゴングが鳴らされた【写真右】ハンセン(左)に32文ドロップキックを放つ馬場さん(1982年2月4日)

“世界の16文”として一時代を築いた故ジャイアント馬場さんの「23回忌追善興行」(東京スポーツ新聞社後援)が4日に後楽園ホールで行われ、多くのレジェンドと現役勢が偉大な故人をしのんだ。馬場さんと“不沈艦”スタン・ハンセンの初対決(1982年2月4日、東京体育館)の記念日として行われた大会で、当時現場にいたレジェンド勢が歴史的一戦の真実を明かした。

 1982年度の東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」年間最高試合賞に輝いた一戦は、徳光和夫アナウンサー(79)の新実況が入ったリマスター版が「特別試合」としてスクリーン上映された。新日本プロレスとの引き抜き合戦の末、全日本プロレス参戦を果たしたハンセンは、大型台風のごとく王道マットを揺るがした。

「あの試合の馬場さんはすごかった。ハンセンが来る直前まではお客さんが会場の半分ほどしか入らなかった。それが(同年1月の)木更津から前売り券はほとんど完売で、東京体育館も超満員。馬場さんがガーッと燃えたのも当然だった。限界説もあったけど、とんでもなかった。いやあ、俺も驚いたって」。こう証言するのは当時、馬場さんの付け人を務めた越中詩郎(62)だ。

 当時のハンセンは新日本でアントニオ猪木と激闘を展開。44歳の馬場さんは戦前予想で「殺される」とまで言われた。ミスタープロレス・天龍源一郎(71)は「世間の限界説に対して反骨心を燃やした試合。大型同士のプロレスに小細工はいらないことを証明した最後の試合であり、最後の輝きだった。あの日、試合を見てジャンボ(鶴田)が『やっぱり馬場さんにはかなわないなあ』と俺に言ったんだ。俺も『ああ』と言うしかなかった。(両者反則の結果だが)馬場さんが勝っていた記憶があるから不思議だね」と述懐する。

 大日本プロレスのグレート小鹿会長(78)も「限界ではなかった。ゆっくり第一線から退こうとしただけ。ハンセンが来たから『全日本のメインイベンターは俺だ』という事実を証明しようとしたんだ。しかしあの大きな2人が一撃一撃に全力を込めて打ち合うんだから、そりゃあすごい迫力だった…」と振り返る。

 大会プロデューサーを務めた全日本の和田京平名誉レフェリー(66)も同様の解釈だ。「馬場さんは当時、全然余力を残していた。後継者であるジャンボや天龍さんにメインイベンターの戦い方を示そうと考えたんじゃないか。事実、あれが最後の名勝負になったよね」

 試合が上映された直後のセレモニーではハンセンからのメッセージが流され、レジェンド勢が10カウントゴングで黙とうをささげた。和田氏は「大成功だった。同窓会のようだったし、こういう場は必要だと思う」と総括。偉大な故人の功績を改めてかみ締めた。

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