【和田京平 王道を彩った戦士たち】全日本プロレスの和田京平名誉レフェリー(66)が往年の名レスラーを振り返る連載「王道を彩った戦士たち」。今回はNWA世界ヘビー級王者として一時代を築き、全日本創設者の故ジャイアント馬場さんの信頼も厚かった現PWF会長、ドリー・ファンク・ジュニアについて語る。79歳のドリーが今なお現役を続けられる理由とは――。

 文字通り、我が道を行くNWA世界王者だった。馬場さんは父親のシニアとガッチリだったので、息子たち(ドリーとテリー)も全日本に恩義を尽くした。NWA世界王座を長く守った(1969年2月~73年5月)人だから、その後に王者になったハーリー・レイスやジャック・ブリスコからも一目置かれていた。

 職人中の職人。日本プロレス時代(69年12月)に馬場さんや(アントニオ)猪木さんが挑戦して60分時間切れ引き分けに終わったでしょ。ドリーの考えにしてみれば60分の試合は楽なんです。左足を攻めて20分、腰を攻めて20分、疲れたら相手に攻めさせる「受け」の時間を組み立てれば、あっという間に60分が経過する。攻め疲れたら受けに徹して体力を戻す。その考えは全日本の基本に合っていたと思う。

 ただ、ものすごい「ゴーイングマイウエー」で悪く言えば大ざっぱ。荷物は持たず、若手に預けっぱなし。ホテルの出発時間も平気で30分遅れて手ぶらで出てくる。怒った馬場さんが「もうドリーの荷物は持たんでいい」と言ったほどで、会場に着いたらドリーが「俺の荷物はどこだ?」と若手に聞く。若手は「知りません」と答えると、怒りもせず「ああ、そうか」と答える。慌てて若手がタクシーでホテルに戻ったと思うけど、試合はどうするつもりだったのかね(笑い)。

 控室でも悠然としてテーマ曲が2回鳴り終わっても、シューズのひもなんか結んでる。「相手には待たせておけ」という感じでマイペースは絶対に崩さなかった。でも紳士でね、嫌な思いは一度もしたことがない。

 忘れられない試合はやっぱり世界オープンタッグ選手権のザ・ファンクス対アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組(77年12月15日、蔵前国技館)。弟のテリーがフォークでメッタ刺しにされているのに、なかなか助けに入らない。ファンは「ドリー、何やってんだよ、早く助けろよ!」とやきもきするんだけど、ドリーにしてみれば自分に試合権がないから出られないと。あれがスタン・ハンセンだったらすぐ飛び出して突っ込んだろうけど、ドリーの姿勢がまた試合を盛り上げたんでしょう。

 今でもリングに上がり続けてるってのはすごいけど、それは若い時代に無理をしなかったから。テリーのほうはハードコアをやったり無理をしたから先にリタイアした。まあ、無理をせずに60分戦い抜くっていうのも本当に強かったからでしょう。

 新型コロナウイルス感染拡大がなければプロデューサーとして馬場さんの「23回忌追善興行」(2月4日、東京・後楽園ホール)には絶対に来てほしかった。ドリーとハンセンは全日本に不可欠な存在だから。ドリーはいつまでも元気だし、すぐに会えると思う。ウイルスが収まったら、日本に来てほしいね。

 ☆ドリー・ファンク・ジュニア 1941年2月3日生まれ。インディアナ州インディアナポリス出身。父は元プロレスラー兼プロモーターのドリー・ファンク・シニアで弟はテリー。63年7月にデビューし69年2月にNWA世界ヘビー級王座を奪取。同年11月、日本プロレスに初来日した。その後ザ・ファンクスで全日本に参戦し、ファンク道場ではジャンボ鶴田、天龍源一郎らを指導した。2008年3月に引退するも、その後に復帰。09年にWWE殿堂入り。13年からPWF会長を務める。全盛期は190センチ、115キロ。