【天龍源一郎vsレジェンド対談「龍魂激論」(9=後編)】“伝説の一戦”の裏に何が――。ミスタープロレスこと天龍源一郎(70)がホスト役を務める「龍魂激論」に元プロレスラーでRⅠZⅠNキャプテンの高田延彦氏(58)を迎えた3回連載の最終回では、天龍の古巣・全日本プロレスと高田氏の意外な接点について語り合った。王道マット創設者である故ジャイアント馬場さんとの思い出と、全日本の常連外国人だった“呪術師”ことアブドーラ・ザ・ブッチャー(80)との戦いを振り返る。

 天龍 馬場さんが(1985年に)「今度(第1次UWFから)前田(日明氏=現リングスCEO)と高田が来る」と俺に言った話は、この連載で何回かしました。俺は「すごいじゃないですか! 盛り上がりますよ!」と答えたんだけど、結局は実現しなかった。

 高田氏(以下高田)永源(遥)さん(故人)が間に入って、キャピトル東急(ホテル=当時)に呼ばれました。でも馬場さんが欲しいのは2人だけだという。実際、団体は苦しかったけど、断りに行きました。キャピトルの一角で馬場さんは足を組んで葉巻をプカーと吸っている。まあ私も若かったし、相手は御大だし緊張しますよね。

 天龍 馬場さんはOKの返事をもらえると思って、待っていたんですよね。

 高田 と思います。馬場さんは座って、私は立ったままで会話は1分そこそこでした。「大変申し訳ございません。今回は素晴らしいお話をいただきましたが、お断りさせていただきます」と。

 天龍 その瞬間、馬場さんの葉巻は一気に短くなっただろうね(笑い)。

 高田 プライドを傷つけてしまったかなと思いました。「俺の誘いを断るとは、この小僧が!」と思われたかもしれないですね(笑い)。

 天龍 高田選手はブッチャーとも戦っているんですよね(1996年10月8日の東京プロレス大阪大会)。

 高田 やりました。

 天龍 俺はそれを聞いたときに「ああ、高田延彦も苦労してるんだなあ」と思いましたよ。

 高田 あの試合のことを今でも言われる時があるんですよ。「高田さん、ブッチャーと戦ったんですよね。すごいですよね」って。それを天龍さんに覚えていていただいたのは意外ですね。何のことはない、団体が苦しいからやったんです。

 天龍 当時、会社を救うために自分のポリシーとは違う戦いをやっている高田選手を、どれだけの人間が理解しているのか気になりましたよ。

 高田 団体から出されたカードをやっていくしかありませんからね。さすがにその時は「ブッチャーかよ。そこだけは避けてくれよ」と言いましたけど(笑い)。でも天龍さん、後々思えば「ブッチャーと戦っておいてよかった」と思えるようになったんですよ。

 天龍 えっ、そうなの。

 高田 ブッチャー、タイガー・ジェット・シンといえば、あの時代のスーパーヒールですから。最凶のブッチャーと戦ったという事実は、こういう職業をやっている以上、やっぱり経験しておいてよかったと。何より同じ業界にいながら、天龍さんが見ていてくれたのは意外だし光栄ですよ。

 ――今後のお互いに期待することは 

 高田 天龍さんには少しでも表に出て言葉を発してほしい。天龍さんの姿を見るだけで、エネルギーや勇気をもらえる人たちがいるわけですから。私も今日、エネルギーをもらいに来た。プロレス界の象徴ですから体調が許す限り、どんどん公の場に出て、叱咤激励を含めた愛ある発言を聞きたいですね。

 天龍 引退後の自分の将来を考えているプロレスラーは少ない。今の現役の選手は高田選手のように頑張れば、自分の立場を業界の中で確立できるという目標を持ってほしい。さんぜんと輝く存在であってほしいですよ。

 高田 歯の浮くような賛辞は嫌なんですが、今の現役の選手は天龍さんのアーカイブを見て、人生で培ってきた「わびさび」やプロレスラーとしての美学を学んでほしいですね。

 天龍 何かムズムズしますが、楽しかったですよ。高田選手とは定期的にお会いしたいですね。今日は長時間、ありがとうございました。 (終わり)

 ☆たかだ のぶひこ 本名・高田伸彦。1962年4月12日生まれ。横浜市出身。81年5月9日の新日本プロレス、保永昇男戦でデビューし、84年に第1次UWFに移籍。崩壊後は新日本のジュニアヘビー級戦線で越中詩郎と名勝負を展開した。88年に第2次UWFに参加し91年にUWFインターナショナルを旗揚げ。総合格闘家としてPRⅠDE創成期を支え、ヒクソン・グレイシーと2度対戦。2002年11月24日の田村潔司戦で引退した。現役時は183センチ、100キロ。