長与千種「父の遺言」「母の強さ」でプロレス復帰決意

2021年01月10日 07時00分

両親は年老いてもしっかりと寄り添うように生きていた(右は母・スエ子さん、左は父の故長與繁さん)

【長与千種・レジェンドの告白(14)】母(スエ子さん=80)は現在、大村市内の介護施設で暮らしている。心臓とぼうこうに重い病を患って、進行性のリュウマチとも闘っている。身体障害者1級で要介護のレベルは「5」。「一緒に暮らそう」と言っても、決して首を縦に振らない。父のお墓が大村にあるからだ。

 とても強い母だ。億単位の保証倒れを背負った父とは決して別れようとしなかった。むしろ運命共同体のように働き、借金を返済し終えるとしっかりと横に寄り添っていた。本当によく別れなかったと思う。

 30年前には子宮がんを患った。最初に手術したのは、私が初めてWWWAのタッグベルトに挑戦(1983年8月)時だった。頭が真っ白になったまま試合をしたことは覚えている。全女の選手が皆、輸血に協力してくれたことは今でも心から感謝している。

 そんな母は父が亡くなった時(2012年7月)から、めっきり元気がなくなった。父のがんが分かった時はすでにリウマチで入院していたのだけれど、体はすっかり弱くなった。しかし生きようとする「意志」というか「決意」がすごい。ベッドに横たわっているだけなのに、傍らに座っているだけでその力が、か細い体からひしひしと伝わってくる。「私が夫のお墓を守らなければならない」という思いなのだろう。

 だから、こちらで母と一緒に暮らすことは諦めた。東京から離れた空気のいい郊外の大きな家を借りて、母とゆっくり同じ時間を過ごす夢もあったのだけれど。もう母の思うように生きてほしいと思う。私が大村に毎月のように会いにいけばいい。そう思うことにした。

 父と母が住んでいた家も引き払い、新しい家を借りた。母がいつ入院先から「家に帰りたい」と言ってもいいように。荷物は半分に整理して、真新しいクローゼットには父のお気に入りのスーツと、私の全女時代の赤と白のジャージーを入れてある。その2着は母の帰りを待ちわびるように、今日も仲良く並んでいる。

 昨年12月30日にも大村に帰ったばかりだ。母の病棟には知り合いのおばあちゃんたちが入院している。母を含めると3世代で、もうみんな気持ちが若くて若くて驚かされる。働いている途中にしりもちをドスンとついて大腿骨、折ったとか本当に田舎のおばあちゃんたちだ。その空間に湿っぽさはみじんもない。私はひそかに「大村48」と呼んでる。病院にいくたびに勇気をもらっている。本当は毎日一緒にいたい。母に会うことが、今の私の生きがいといってもいい。

 父の位牌は私の手元にある。だから母にもし何かのことがあれば、東京に新しくお墓を建てようかとも考えている。しかしそれは、まだ当分先の話だ。

 母には「生きる」意志の強さを教えられた。父は「もう一度お前のプロレスが見たい」と遺言を残した。ならば私は、これからどこへ進めばいいのか。答えはひとつ。プロレスしかなかった。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し94年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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