長与千種の父の〝遺言〟「もう1回、お前のプロレスを見せてくれ」

2021年01月09日 07時00分

ガイア時代の1996年4月には神取(下)とも激突。この時期に父親と大ゲンカを繰り広げた

【長与千種・レジェンドの告白(13)】両親の話をしよう。父(故長與繁さん=享年78)と母(スエ子さん=80)は、年老いても2人で手をつないでいるような夫婦だった。ボートレーサーだった父は2012年7月にすい臓がんで逝ったが、私は最後まで父に勝つことはできなかった。

 私がプロレスに入った3年目、母が子宮がんになった。父はその当時出稼ぎに出たままで、子供たちに仕送りしながら母の入院費用も稼がなければならなかった。ユンボや大型の免許も持っていたので、1日24時間、ほとんど寝ないままで現場に出ていたと聞く。そんな時期、父のヘルメットの上に重いものが落ち、その衝撃で左目が網膜剥離となって、ほとんど見えなくなってしまっていた。

 クラッシュ人気がピークに達し、私は父が保証倒れを起こした残りの借金約8000万円を返済した。父と母は大村に戻り新たな生活を始める。今度は私が仕送りして両親に楽してもらう番だ。最初は娘の仕送りを頑なに拒んでいた父だが「お願いだから何もしないでゆっくりして」という私の言葉に折れてくれた。それでも隠居なんかしない。本当にバイタリティーのある人だった。

 かつて9軒もの飲食店を経営していた大村に戻るや、町内会長も引き受け、借りた畑でたまねぎやじゃがいものオーガニック栽培を始めた。商売をするわけでもなく「勝手に持っていってくれ」と300から500株の野菜を人にあげてしまう。人間の器が違った。

 プロ入りしてから父親と取っ組み合いのケンカをしたことがある。ガイアの頃だ(1996年6月)。他団体の大会に出て、ある事に腹を立てたまま家に戻った。たまたま上京していた両親が「どうしたの?」と聞く。何も話したくない私が声を荒げると、父が胸ぐらをつかんできた。私は瞬時に払い腰で返してしまった。プロレスラーの本能だろう。気がつけば父親にスリーパーホールドを決めていた。

 横では母が泣きながらパンフレットで私の頭を殴っている。その直後、母のサッカーボールキックがすごくいい角度から私の顔面に決まった。リング上でもあんなにいい蹴りを食ったことない(笑い)。一瞬真っ白になってハッと我に返った時、父は母に担がれタクシーで救急病院に向かっていた。肋骨が折れていたらしい。

 普通ならこれで親子の縁が切れるところだろう。ところが仲直りの仕方もドラマのようだった。ケンカした翌年の8月、私は24時間テレビの中継で長崎からのリポーター役を務めた。募金のコーナーでは、何十人何百人もの人が並び、私に募金を渡してくれた。そこに父と母が、親戚を連れて郵便ポストの貯金箱を持って並んでいたのだ。収録が終わると待っていた父にようやく「ごめんね」と言えた。父は「うん」と言うだけだった。この人にはかなわねえなあって痛感した。

 そして2012年春、長崎の病院からの電話で父がすい臓がんで緊急入院したことを知る。余命3か月。私は告知役を願い出た。「ごめん、親父。がんだって」「あとどれぐらい生きられる」「3か月だって」。とても簡素なやり取りの後、父は病院を出て家に戻ると言い出した。通帳や実印を私に預けると「坊主はいらん。火葬だけでいい。お前が喪主をやれ」と命じた。再度入院し、全身麻酔をかける前、父は私にこう言った。「もう1回、見せてくれ」。私のプロレスがもう一度、見たいというのだ。

 そしてそれが遺言になった。大村は小さな町なのに葬儀には200、300人の人が訪れてくれ、口々に「お父さんにはお世話になった」と頭を下げてくれた。私は泣かなかった。喪主を務め、四十九日を終え、ようやく納骨を済ませた100日目。私は初めて泣いた。ビービー声を上げて赤ん坊のように泣いた。もう1回、お前のプロレスを見せてくれ――大好きだった父の最期の言葉が胸に突き刺さっていた。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し94年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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