【長与千種・レジェンドの告白(11)】ここ数年間の男子プロレス界では「レインメーカー」という言葉が華やかに踊っている。「金の雨が降る」という意味では、クラッシュギャルズはまさに早過ぎた「レインメーカー」だった。

 全女はクラッシュで十数億、いや数十億稼いだかもしれない。クラッシュブームが始まった1985年7月には、目黒区の一等地に自社ビルを建てて道場と事務所を新装した。何千万もするクルーザーまで買った。経営に当たっていた松永一家は、とにかく稼いだお金を次から次へと使いまくった。だって2億円出して秩父の山を丸ごと買っちゃうんだから。「あっぱれ」と思うしかないぐらいに稼いだお金を使っていた。その後、投資に力を入れすぎて会社は傾いてしまうのだが…。

 クラッシュブームの2年目だっただろうか。会社が「特別ボーナスだ」と1000万円を用意してくれた。目の前でそんな現金を見ても現実味はわかない。私は「これほどのお金があるなら、後進育成のために貯蓄しておいてください」と断った。デビューからの4年間はとてもつらい思いをして、試合もなく先輩に食わせてもらった時期があったからだ。でも会社がためておいてくれるはずもなかった。

 私自身、世間で思われているほどは稼いではいない。最高時で年俸3000万~4000万円ぐらいだったろうか。お金の管理は姉に任せた。人気が出始めた時期から隣り合わせで住むようになっていた。だから欲しい時は姉に「何万円ちょうだい」とか、生活は派手になっても身の丈を超えるものではなかった。

 自分で稼げるようになってまず最初に、保証倒れを起こした父親の借金の残額を返した。これが約8000万円。考えれば父と母は出稼ぎで私たちに仕送りしながら、わずか4、5年で2000万円ほどを返済していたことになる。それってすごいし心から尊敬する。本当に働き者の両親だった。最初は私からの仕送りも断っていたほどだ。

 それと大村市に立派なお墓を建てた。分家だったので長与家にはお墓がなかったから。地元のお城に火の見やぐらが建てられることになったので200万円寄贈した。でもなぜか私の名前は彫ってない。一番最初に上らせてくれてもよかったと思うんだけど(笑い)。

 金遣いは荒かったけど、松永一家は憎めなかった。会長(故松永高司氏)はプロレスラーとしての恩人だ。引退試合が終わった時なんか、久しぶりに控室に飛び込んで涙目で「ありがとう…」と言う。「今までお疲れさま」って言ってくれるのかなあ、とこちらもしんみりしたら「ありがとう、今日の上がりは2億円になった」って。久しぶりにコケそうになった(笑い)。

 会長はよく「小さな星をつかめる人間はたくさんいる。だけど大きな星をつかめる人間はひとりしかいない」と言っていた。私は長い間、それは北斗晶のことだと思っていた。北斗も自分のことだと思ってたらしい。でも会長が亡くなる直前まで旅行に連れて行ってあげたりした北斗が、後に教えてくれた。「違ったよ、チコさん。会長が『あれは千種だ』って」と教えてくれた。感極まるものがあった。

 そんな「レインメーカー」に会社は露骨な「肩叩き」をしてきた。「次のシリーズからポスターでの扱いが小さくなる」と言う。要するに若手の踏み台になれというわけだ。私は引退を決意した。会社が「さよならクラッシュ」というシリーズを半年ぐらい組んで、日本全国で儲けようという魂胆なのは見えていた。冗談じゃない。1989年1月、私は一方的に引退を発表した。そして5月6日、全女初の横浜アリーナ大会で引退する。この年の8月に飛鳥も引退。クラッシュの時代は完全に終わりを告げた。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。