長与と飛鳥の関係にヒビ…クラッシュ分裂、そして電撃引退表明

2021年01月06日 07時00分

リング上で歌を披露したクラッシュギャルズ(飛鳥と長与)

【長与千種・レジェンドの告白(10)】飛鳥との関係に少しずつヒビが入っていたのは、分かっていた。人気のバランスが崩れ、私のウエートが重くなってしまったからだ。この時期には正直、話すこともなくなっていた。飛鳥なりに考えて答えを出した結果、芸能活動を辞めるという。1985年5月、クラッシュは活動を一時停止した。確かにコンビとして達成することは、やり尽くしてしまっていた。

 数年前、テレビの企画で約10年ぶりに飛鳥と会った。その時を振り返って飛鳥は「恨んでいた」と明かしてくれた。私は「ごめんね」と言うしかなかった。「ありがとう」とも。お互いにこの時のことをいまだに引きずっていた。でも私は飛鳥じゃなければダメだった。まあ女房みたいなものだったのかもしれない。

 それでもリング上での歓声は続いた。シビアな会社は続きを考える。当時、試合を組んでいた松永一家の国松さん(四男)の口から「もうタマがない」という言葉が出た。つまりクラッシュ対極悪同盟に続く目玉のカードがないというわけだ。

 となるとクラッシュ対決、あるいはそれぞれがシングル王座に向かうしかない。1986年1月の後楽園大会で負傷から約8か月ぶりの復活を果たすと、2月の川崎市体育館で飛鳥と一騎打ち。60分フルタイムドローとなり、延長戦でも判定でも決着はつかなかった。私は飛鳥に最後まで勝ち越せなかったと思っていたのだけど、最近会った時は「違うよ。完全にイーブンだよ」と言われて驚いた。今、振り返って気がつくことって本当に多い(笑い)。

 私がWWWA世界女子のシングルを巻けなかったのは、クラッシュの時期が長かったから。初戴冠は87年10月29日の大田区体育館大会まで待たなければならなかった(王者は大森ゆかり)。この試合後、神取忍(当時しのぶ。ジャパン女子)が会場に現れ、挑戦を表明してきた。当時の女子プロでは画期的な大事件だった。

 私は常に自分で自分の道を切り開いてきたつもりだった。「これは面白い」と直感で分かった。当時は全女の天下。そこに新しくできた団体のトップがかみ付いてきた。しかも元女子柔道日本王者だ。向こうにはジャッキー(佐藤)さんもいる。対抗戦をやれば絶対盛り上がる。私は神取との対戦を会社に直訴した。

 答えは冷ややかで単純明快だった。「戦ってウチに何のメリットがあるんだ?」。要するに戦う意味がないと。私は単に神取と戦いたいわけじゃなかった。この時すでに、デビル雅美さんとダンプ松本が引退を表明していた。団体は衰弱する。今こそ対抗戦が必要だと確信したからだった。

 当時、ポスト・クラッシュとされていたのはJBエンジェルス(山崎五紀、立野記代組)。2人ともアスリートとして才能は抜け出ていたが、対戦相手がいなくて伸び悩んでいた。今、対抗戦をやれば、間違いなく彼女たちはブレークする。若い世代でもジャパン女子のあの選手と戦えば、きっといい試合になる。私は下積みが長かったからこそ、そこまで考えられたと思う。

 今思えば「メリットがない」と判断を下した会社の姿勢はよく理解できる。放映権や興行権の問題、ギャラや収入の配当分量、グッズ売り上げなどの細かい問題…諸問題は山ほどあったけど、あそこで対抗戦をやるべきだった。結果的には全女の東京ドーム大会より約5年早かったわけだ。

 対抗戦はできない。私は急速にプロレスへの熱が冷めていった。もう続ける意味がない。89年1月29日、飛鳥とのWWWA王座決定戦に敗れた私は、電撃的に引退を表明した。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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