【長与千種・レジェンドの告白(9)】目に見えないスピードで、クラッシュ人気は過熱していった。19847月からは、フジテレビの中継が8年ぶりにゴールデンタイム(月曜午後7時)に復活した。取材が殺到して、レコーディングの話まで舞い込んだ。デビュー曲「炎の聖書(バイブル)」だ。

 人前で歌なんか歌ったことがない。カラオケですらまだ珍しい時代だ。言われるがまま飛鳥と2人で金魚鉢みたいなスタジオに入り、何とか歌った。8月に出たデビューシングルは10万枚を超えるヒットになり、クラッシュはシングル8枚、アルバム7枚を出した。

 生活は一変した。朝起きるとすぐに取材、テレビ出演。試合前の歌のコーナーに間に合うよう会場に着いてから、試合をしなければならない。どこへ行っても超満員だから、力を抜くなんて絶対に許されない。試合が終わるとコスチュームのままタクシーに乗り込んでテレビ局に向かう。試合が終わった後にリング上から歌番組の生中継なんてこともあった。

 寝る間もなかった。一日が終わると疲労が極限を超えて帰ることもままならず、会社の駐車場の車で1時間ほど仮眠して翌日の仕事へ行くなんていう日もあった。移動用の車がテレビ局まで首都高をぶっ飛ばして反則切符を切られた時は思わず声を上げちゃったけど(笑い)。

 21歳、22歳の私に考える余裕なんてなかった。むしろ「ノー」と言えなくなるほど、周囲の大人たちの狂想曲的な騒ぎは収まらなかった。数億円、数十億円のお金が動くようになっていた。

 それでも楽しい部分もあった。海外ロケもあったし、歌番組ではシブがき隊、早見優さん、石川ひとみさん、岩崎宏美さん、中学生の時から大好きだったゴダイゴさんとかに会えたから。夢のような世界だった。だけど、ある超人気アイドルグループなんかは控室でグッタリしていて、出番まで全員居眠りしてた。タレントさんも大変なんだなと思った。

 8月にはWWWA世界タッグ王座を獲得。クラッシュとして初めてのタイトルを手にした。春に結成されたダンプ松本率いる「極悪同盟」との抗争も本格化して、クラッシュブームはより過熱していった。

 人気がピークに達した時期でテレビは月曜夜と、土曜日曜が隔週で夕方から放送された。月8回は全女の中継があったわけだ。年間310試合。日本中どこへ行っても超満員。視聴率は20%までハネ上がっていた。全女の中継を担当したフジテレビのバラエティー班は、当時で一番の視聴率を出していたと聞く。それでも私と飛鳥は、毎回違うフィニッシュ技で試合を決めようと誓い合い、それを実践していた。その点は絶対に妥協しなかった。

 そのころにはもう一人暮らしを始めていたが、ファンの人が家の前で待つようになったので、半年に一度は引っ越ししなければならなかった。人気が上がるたびにセキュリティー管理のしっかりしたマンションに引っ越した。家賃は10万、30万、50万とグレードは上がっていくんだけど、ほとんど家には帰らない。夜中に戻るとガラーンとした空間がさびしかった。

 食事や買い物だって一人で気軽に行けない。誰かに気づかれれば大騒ぎになる。洋服だって身分相応のものを買わなきゃいけない立場になったので、月に1回の買い物で20万から30万円で済ませた。人前で一度着た服や使ったバッグは二度使えない。ほとんど新品の衣料品は、全て大村の施設関係に贈っていた。

 心は決して満たされることはなかった。クラッシュ人気が過熱するにつれ、さびしさも増していく。飛鳥との関係にもすきま風が吹き始めた。そして1986年5月、飛鳥は突然、芸能活動の停止を発表してしまう。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。