長与千種がクラッシュ人気爆発を実感した「超満員札止め」「売店売り上げ1500万円」

2021年01月04日 07時00分

ジャガー横田(左下)とデビル雅美(右下)にサソリ固めを決めるクラッシュギャルズの長与(左)と飛鳥(1984年6月の川崎大会)

【長与千種・レジェンドの告白(8)】最初は、ほんの十数本の紙テープしか舞わなかった。

 1983年8月27日、「クラッシュギャルズ」として初めて臨んだWWWA世界タッグ選手権(王者はジャンボ堀、大森ゆかり組)。私と飛鳥は試合内容で見せるつもりで、あえてジャージー姿で試合に臨んだ。正拳突き、顔面への蹴り、張り手…。ケンカスタイルを貫いた。

 でも相手は2人とも体が大きくて「ベルリンの壁」みたいだった。私たちはやられてもやられても、立ち上がるしかない。耐え抜いた後にやり返す。それは飛鳥も同じだ。勝てなかったけど、この試合で、明らかに私たちを見る目が変わった。試合後はチャンピオンより大きな声援を受けたと思う。「いける」。そう確信した試合だった。

 フジテレビの中継(当時は土曜夕方)でも放送されたため、反響も大きかった。そこから私たちに対する声援は加速していった。ティーンエージャーの女性ファンたちが会場に戻り始めた。

 この時は7割程度だった後楽園の入りも、次回には超満員になっていた。紙テープの量も数十本、数百本と増えていく。最終的には何千本、何万本という数字になるとは想像できなかったけれど(笑い)。

 クラッシュのスタイルは見ている人たちにとっても、熱を入れやすかったと思う。私は他の選手に比べれば体格で劣っていた。だから必死に立ち上がるしかない。相手の攻撃に耐え抜いて、飛鳥につなぐ。この後は頼んだと。勝負を決めてくれるのは飛鳥でいい。野球でいえばピッチャーとキャッチャーのように、役割分担がハッキリしていた。あるいは私はファウルで粘って4番打者につなぐ役みたいな。そこが受け入れられたのだろうか。

 その年はタッグリーグ戦で優勝。翌年(84年)1月にはWWWAタッグ王座(堀、大森組)に再挑戦する。結果は60分フルタイムの引き分け。王座獲得はならなかったけど、この時期から確実にクラッシュギャルズの人気は爆発的なものになっていった。

 私がそれを実感したのは、王座戦直後の川崎市体育館大会だ。メインでデビル雅美、ジャガー横田組との対戦が組まれた。2人とも当時のトップ、大先輩だ。会場は5000人を超える入りで、超満員札止め。テレビ中継もされた。

 結果は60分引き分けだった。私と飛鳥はもう力を出し尽くして、リング上で大の字になっていたのだけど、デビルさんとジャガーさんは、ニヤッと笑ってこっちに向かってVサインをしてきた。「お前ら、まだまだだよ」と言わんばかりに。「コンチクショー!」って思った(笑い)。まだまだ超えるべき壁はあるんだなと。

 そうしたら試合後に松永会長(故高司氏)が控室に飛び込んできた。「千種、ありがとう」と言う。絶対控室には入らない方だったので、こっちは「何だろう?」と身構える。試合内容がよかったと褒めてくれるのかと思ったら「ありがとう。売店の売り上げが1500万円になった」とお礼を言われた。コケそうになったけど、今考えれば1500万ってすごい額だ。

 しかし、その金額はあっという間にケタ違いのものへと増えていく。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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