全女スタイルを変えた長与と飛鳥の打撃系ファイト「クラッシュギャルズ」誕生

2021年01月03日 07時00分

歌のステージに向かうミミ萩原をガードする長与(右)とライオネス飛鳥(左)

【長与千種・レジェンドの告白(7)】1983年1月4日、後楽園ホール。当時、ライオネス飛鳥が持っていた全日本シングル選手権のベルトに挑戦することになった。防衛戦の相手がいなくなっていた時期に「長与でも当てるか」というカンジで会社が選手権を組んでくれた。そのころ、私に対する評価は「雑草上がりでつまらない選手」で、一方の飛鳥は「エリートで何でもこなすけど平均的でつまらない選手」だった。だが結果的には、つまらない同士、1プラス1が何倍にも化けてしまうことになる。

 試合前日、私は飛鳥にある相談を持ちかけた。「今までにない試合をしよう。殴って蹴って絞めて反って投げる。どんなにやられても私は立ち上がるから」。飛鳥自身も伸び悩みを感じていたのだろうか。「OK」のサインが出た。私自身、このまま日の目を見ないまま終わるなら、いっそスッキリとクビになったほうがいいとハラをくくっていた。

 試合はそれまでの全女の常識を覆す激しいものとなり、私は負けてしまったけど、場内は異様なムードに包まれた。明らかにこの日、何かが大きく変わった。

 試合後、私は松永国松さん(松永一家の四男。レフェリーも務めており、一時期は社長職にもあった)に呼び出された。「ああクビだな」と覚悟したのだが、面と向かって出てきたのは「おもしろい!」という意外な言葉だった。「こんなことができるのに、何でやらなかったんだ?」とも言われた。押さえ込み中心の全女スタイルに、松永一家も危機感を抱いていたのだろうか。当時女子では避けられていた打撃系のファイトスタイルにGOサインを出してくれたのだ。

 これで私の方向性は決まった。殴る、蹴る、絞める。とはいえ、伝統の全女スタイルに反旗を翻して先輩レスラーにケンカを仕掛けることになる。飛鳥との試合後、そのスタイルを貫いても「この野郎!」と怒ってやり返されるだけだった。今でも奥歯がないのは、そのころにボコボコと殴り返されたからだ。

 それでも私は下にいることにもう疲れ果てていた。組まれた試合では、毎回このスタイルを続けた。飛鳥との一戦以来、何度か地方大会で組む機会はあった。その時期から私は「いずれ飛鳥と組むんだろうな」という妙に確信めいた思いがあった。

 そして83年5月、会社は私と飛鳥のコンビで当時WWWA世界タッグ王者だったジャンボ堀、大森ゆかり組への挑戦を決めた。当時はマスコミも女子プロレスなんてほとんど扱わない。決定したカードだって、お客さんが当日知るような状況だった。会社だって、このコンビを継続してやらせようとは思っていなかっただろう。

 それでも私と飛鳥の間では「チーム名を決めよう」と意見が一致した。そのころは新日本プロレスでは前田日明さん(当時明)がヨーロッパから凱旋帰国した時期で「クラッシャー」とか「スパークリング・フラッシュ」と呼ばれて人気を集めていた。

「クラッシュ」は「壊す」という意味で私たちのスタイルにピタリ当てはまった。そこに当時流行している女子雑誌の名前の「ギャルズ」をくっつけてみようか――。

 私たちはリングアナウンサーに試合前はこうアナウンスしてほしいと頼んだ。「クラッシュギャルズ」の誕生だった。

 そこから私は誰も見たことのない世界に足を踏み入れることになる。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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