極貧生活&地獄トレ乗り越え「プロレスラー・長与千種」誕生

2021年01月01日 07時00分

入門初日からハードな縄跳びが課せられた(本人提供)
入門初日からハードな縄跳びが課せられた(本人提供)

【長与千種・レジェンドの告白(5)】当時の全日本女子プロレス道場と事務所は目黒の4階建てのビルの1階にあって、屋上にバラック建ての寮があった。風が吹けばすぐに吹き飛ぶようなトタン屋根だった。私は声を失った。想像していた世界とはあまりにかけ離れた光景だったからだ。

 2段ベッドが入った四畳半が3間。あとは小さなキッチン、リビングに追いだき式の古いお風呂。父と母が身の回りのものを用意するために上京してくれ、私は布団を担いで階段を上った。規則で親は寮に入れない。私は4階の階段から手を振った。あの気丈な母が泣いている。初めて「本当に女子プロレスの世界に入るんだ」と実感した瞬間だった。

 待っていたのは地獄のようなトレーニングだった。同期には大森ゆかり、最初は宣伝カー担当に回されていたダンプ(当時は松本香)さんがいた。全部で7人。松永一家の次男・健司さん(全女を経営した松永一家の次男で後の副会長。三男・高司氏は後に社長から会長)がコーチ役で、ブリッジと受け身と股割りを徹底的にやらされた。練習用のリングはコンクリートの上に厚手のラバーが敷いてあるだけ。路上で受け身を取っているようなものだった。生まれて初めて背中から全身にどす黒いあざができた。ブリッジのやり過ぎで終わった後は額を指で押さえてないと、頭が「カクン」って前に落ちるほどだった。

 2日目の練習が終わってグッタリ動けなくなっていると健司さんが「全員裸になれ」と言う。何も反論する間もなく、全員が上半身裸になってリング上にうつぶせになった。そうするとサロメチールを塗ってくれる。これが効くんだ、また(笑い)。向こうは商品としてしかこちらを見ていなかったわけだ。本来なら多感なはずの15歳の少女に、考える余裕などなかった。

 朝は6時に起きて道場から世田谷区の等々力までランニング。12~13キロはあっただろうか。戻るとすぐに縄跳び。昼は急いでご飯を詰め込むと、午後からは押さえ込みと絞め技のみのスパーリングが始まる。私は何度も練習生に落とされた。「参った」の仕方も分からないし教えてくれないから、本当に落ちるまでガマンするしかなかった。

 当時の寮はお米とトイレットペーパーだけは支給された。あとは自腹。今考えるとすごい話だ。だから全員仕送りしてもらっていた。私も入寮する時に両親から5万円を渡され、その後も母から仕送りしてもらっていた。1万円でどう1か月を乗り切るか。八百屋で野菜の切れ端を10円でもらい、あとはマヨネーズとタバスコ。そうすれば何とかご飯は食べられる。肉なんて買えるわけがない。月に一度、ケンタッキーフライドチキンを1個か2個買ってきて、ご飯に混ぜて食べるのが唯一のぜいたくだった。

 そんな生活と練習の合間には、電柱に貼るポスター作りの手伝いや、山のような雑用…。この苦しみに耐えられて残った人間は、必然的に強くなる。そうして誰もが精神的にも肉体的にも、化け物みたいに進化していった。

 入門から1か月がたったころ「プロテストを受けろ」と会社から命じられた。5月10日、大宮スケートセンター。初めて上がる試合用のマットは想像以上に柔らかかった。松永一家と先輩レスラーが見守る前で数人とスパーリングをこなすと「合格」という声が上がった。私は10円玉を握り締め、会場の公衆電話から父と母に「受かったよ」とひと言だけコレクトコールで伝えた。そう言うのが精一杯だった。プロレスラー・長与千種が誕生した日だった。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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